★漂流教室関谷「みなさん、こんにちは。漂流教室関谷です。」
☆純クレ梅本 「純クレ梅本です。今日ご紹介するのは蔵書九万クラスの方です。」
★漂流教室関谷「七万クラス、八万クラスに続き、今回もお一人です。」
☆純クレ梅本 「さすがにここまで本持ってる人となると限られてきますね。」
★関谷「さて、昔東大には学生を前にして『日本でもうじき革命が起こる!』って説く教授が実在するという噂があってな・・・」
☆梅本「それが今日の・・・」
★関谷「そう。それが今回紹介する江口朴郎だ」
☆梅本「今までこのシリーズの蔵書家をみてきた人は分かってると思うけど、9万冊って相当な数ですよ。和書洋書雑誌あわせて90320冊。非図書資料はこのサイトでは入れないことになってますが、これも加えたら10万近いですね。」
★関谷「内訳はどうなってるの?」
☆梅本「えーと 和書10778、洋書726、雑誌78816、非図書資料8330・・・。これ、なんか変ですね」
★関谷「本が1万冊しかないのに、学術誌が8万近くもある。この人はなんでこんなに雑誌持ってんだい?」
☆梅本「この人東京大学の教授なので、基本的な文献に関してはあそこはない物はない筈です。個人で持っておかなければならない特殊な雑誌がはたして8万冊もあるのかしら?」
★関谷「しかしこれだけ情報を集めてて、『もうすぐ日本に革命がおこる』って・・・」
☆梅本「ここの管理人は無教養なので、江口さんの本は中学の時に中公の「世界の歴史14」しか読んでなかったんです。それで今回ブログで取り上げるに際して晩年の本にさっと目を通してみたけど、考え方は60年代後半とあまり変わってなかったって。歴史が大きく動く時期の直前に書かれた本なんだけど」
★関谷「同時期に、同じ共産主義研究の分野のブレジンスキーが書いた本は、直後に共産国家が破たんする事を予言していたというのにな・・・」(注 「大いなる失敗」)
☆梅本「ブレジンスキーって薄っぺらな感じの人だけど予言だけは妙に当たりますね。佐藤政権の末期の頃に日本へ来て「ひよわな花日本」って本書いてそこで将来首相になる政治家を予測してるんです。田中、福田、大平、中曽根とほとんどが的中してる。当たらなかったのは自民党を飛び出た河野洋平ぐらい。」
★関谷「まあブレジンスキーは予言したというよりも、そういう操作をする側の「中の人」だったのかもしれないし・・・」
☆梅本「江口朴郎ってある意味すごく運のいい人ですよね。1989年の三月に亡くなってる。その直後天安門事件が起こり、十一月にはベルリンの壁が崩壊してます。」
★関谷「翌年にはソ連が解体する。社会主義・共産主義の凋落を見ずに死んだ人だな」
☆梅本「死ぬまで夢の中にいた人ですよね。共産社会の実現を夢見てたルイジノーノなんかあの後自殺してるじゃないですか?」
★関谷「お前は共産主義者にはいつも厳しいな」
☆梅本「マルクス主義って経済決定論でしょう? この人はこれだけ資料集めてて、二大超大国とか言われてた冷戦時代もソ連のGNPはアメリカの十分の一以下だったって事を知らなかったんですか?」
★関谷「いや、第三世界でも共産主義への大衆の支持が伸びていて江口はそれを高く評価してて・・・」
☆梅本「この人コミンテルンにも詳しいんでしょう? なら第三世界の左派運動なんか西側の資金がないと」
★関谷「それ言うと陰謀論になっちゃうでしょう! というか、俺が何で江口の弁護してるんだ?」
☆梅本「今回の教訓は、いくら資料を集めたところで、分析する側のメンタルに客観性が欠如していれば全く意味はないという事ですね?」
★関谷「そういう事。 今日ご紹介した方はお一人でした。来週は、いよいよ十万越えの人達が登場することになります。ついにここまで来ました」」
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2018年12月25日火曜日
2018年12月23日日曜日
[110] 現代日本の蔵書家8 八万クラスのひとたち
☆梅本「今回は8万クラスです。立花隆さんお一人です。『ぼくはこんな本を読んできた』(1995刊)の頃は三万五千冊ぐらいだったそうですが、『立花隆の書棚』(2013刊)の頃は本人評価で七~八万だそうです。五年前のデータですから8万には届いてるんじゃないでしょうか。というかもっと増えてるかもしれません。新しいデータが出たらまた書き直す。それだけですよ」
★関谷「立花さんといえば、やはりあのネコビル・・・ 『立花隆の書棚』は楽しい本だよ。ネコビル内部の写真がふんだんにある」
☆梅本「ネコビルの話も面白いんですが、それよりこのブログの管理人が出てきて弁明するそうですよ。 はじめに のところで立花隆さんと松岡正剛さんを『企画モノの蔵書家』とか無茶苦茶書いてたでしょう。その弁明だって」
□管理人「ブログの管理人です。あれでは意の通じないところがあろうかと思いまして・・・」
★関谷「謝りに来たのか!」
☆梅本「土下座しに来たのか!」
□管理人「私は個人的には立花さんも松岡さんも嫌いではないです。本を読ませてもらっても面白いし。ただ、蔵書家としての取り上げられ方をみると、やはりどうかなと思うところがある。
やっぱり、この人の本質はジャーナリストなんですね。だから本以外に情報源が多彩すぎて、本はその情報源の一つに過ぎない。それも主要なものではなくバックグラウンドを豊穣にするためのものというか・・・
それと書くものが、本の世界にどっぷりつかってあちこち漁りつくした末にたどり着いたテーマというより、脳死とかサル学とか、メディアの要請に応えて取材してみたという印象が強い。
さらにご本人は書評家でもあるので、『本について書いた本』では常にその時々のベストセラーを中心に紹介してるというか、『本当の好み』ないしは『執着する対象』が今一つ見えてこない。
私がある程度興味をもてる蔵書家って、その人間の癖が強烈に出てる人なんです。別に稀覯本のコレクターじゃなくてもいいんです。
昔はこんな本誰が買うんだろうと思ってた本を、その後知識が広がり興味がどんどん過疎地に導かれて、いつの間にかそれに大枚はたいてる自分がいる。変なところに辿り着いたなあという感慨を持ちつつ、たぶん他人からはなんでこんなもん買うんだろうと思われるようなものばかり買い続けてる。そういう感じのひと。
前頁で取り上げられてる草野さんの場合、収入の七割を本に使い、『本の隙間に住まわせてもらってる』と口にし、最後は本の谷間で横たわってるのが発見された。
これでは「本を読んだ人」ではなく「本に読まれた人」だと思われる方もいるかもしれない。例えば、岡田斗司夫が3万7千冊の本を処分して、千冊だけにした理由は、「本の奴隷になりたくない」という恐怖感でしょう? それを捨てずに、最後まで行っちゃったのが草野さんだと思うんですよ。
立花さんが巨大な蔵書を保持しながら、その奴隷にならず、自分をコントロールできているのは、多分いろいろなコツを持ってるためだと思います。例えば立花さんは「本は、読むものではなく(辞書みたいに)引くものだ」と言ってます。ジャーナリスト出身で大量の情報を処理するすべを学んでる立花さんはそういうコツを他にもたくさん持っているに違いない。
だからそういう人の情報整理は明晰で的確で、お書きになるものもやはりそういう風になってる。でも、そういう人の書くものは面白くないんですよ。整理されすぎちゃって。
情報ツールとして本を自在に使いこなした立花さんは「本を読んだ人」であり「本に読まれた人」ではない。でも興味の対象としてはやや劣るんです。一般人から見たら、立花さんは自分たちよりたくさんの本を買う金を持っていて、たくさんの本を読む時間を持っていて、自分たちにメディアおすすめの本を紹介してくれる人という風に見えてしまいます。「メディアが用意した」とまでいえば言い過ぎになりますが・・・
松岡正剛さんもこの人は大変博識なんだけど、千夜一夜ですか。もう千冊とっくに超えちゃってるけど。あれ全部読むってすごい馬力ですね。
ただその選択があまりにも80年代のニューアカブームを反映していて、なにかと似てるというか・・・ 戦後民主主義の全盛期に岩波文庫のおすすめみたいな特集があったでしょう。推薦人が丸山眞男とか中野良夫とか、今から見るとゲゲッていうようなメンツがゲゲッていうような本を薦めてたやつ。
松岡さんのセレクトはもちろんそれとは比べ物にならないんだけど、やっぱり今の出版界がおすすめしてる流行の・・・・ だから逆にそういうのを全部読破してゆくって、すごい馬力だなあと感心しちゃうんです。
立花さん同様に情報源が多様で、ご本人がある意味『本を超える人』であることだけでなく、立花さん同様、書評欄でおすすめの本ばかりを推薦されてるというか・・・
書かれたもので面白い本は多いし、好きか嫌いかといえば好きなんだけど、一方で小谷野敦が言ってるようなこともよく理解できるんですね。
ここは立花さんのコーナーなのでこれくらいにします。松岡さんを取り上げるときにまた寄せてもらいますよ。それでは失礼します」
☆梅本「今のはいったい何??」
★関谷「というか、あいつは謝ったのか??」
★梅本「最初面白いって言っといて、後で面白くないって・・・」
★関谷「それより、草野さんって一体誰だ??」
☆梅本「いったい何しに来たんでしょう??」
★関谷「立花さんといえば、やはりあのネコビル・・・ 『立花隆の書棚』は楽しい本だよ。ネコビル内部の写真がふんだんにある」
☆梅本「ネコビルの話も面白いんですが、それよりこのブログの管理人が出てきて弁明するそうですよ。 はじめに のところで立花隆さんと松岡正剛さんを『企画モノの蔵書家』とか無茶苦茶書いてたでしょう。その弁明だって」
□管理人「ブログの管理人です。あれでは意の通じないところがあろうかと思いまして・・・」
★関谷「謝りに来たのか!」
☆梅本「土下座しに来たのか!」
□管理人「私は個人的には立花さんも松岡さんも嫌いではないです。本を読ませてもらっても面白いし。ただ、蔵書家としての取り上げられ方をみると、やはりどうかなと思うところがある。
やっぱり、この人の本質はジャーナリストなんですね。だから本以外に情報源が多彩すぎて、本はその情報源の一つに過ぎない。それも主要なものではなくバックグラウンドを豊穣にするためのものというか・・・
それと書くものが、本の世界にどっぷりつかってあちこち漁りつくした末にたどり着いたテーマというより、脳死とかサル学とか、メディアの要請に応えて取材してみたという印象が強い。
さらにご本人は書評家でもあるので、『本について書いた本』では常にその時々のベストセラーを中心に紹介してるというか、『本当の好み』ないしは『執着する対象』が今一つ見えてこない。
私がある程度興味をもてる蔵書家って、その人間の癖が強烈に出てる人なんです。別に稀覯本のコレクターじゃなくてもいいんです。
昔はこんな本誰が買うんだろうと思ってた本を、その後知識が広がり興味がどんどん過疎地に導かれて、いつの間にかそれに大枚はたいてる自分がいる。変なところに辿り着いたなあという感慨を持ちつつ、たぶん他人からはなんでこんなもん買うんだろうと思われるようなものばかり買い続けてる。そういう感じのひと。
前頁で取り上げられてる草野さんの場合、収入の七割を本に使い、『本の隙間に住まわせてもらってる』と口にし、最後は本の谷間で横たわってるのが発見された。
これでは「本を読んだ人」ではなく「本に読まれた人」だと思われる方もいるかもしれない。例えば、岡田斗司夫が3万7千冊の本を処分して、千冊だけにした理由は、「本の奴隷になりたくない」という恐怖感でしょう? それを捨てずに、最後まで行っちゃったのが草野さんだと思うんですよ。
立花さんが巨大な蔵書を保持しながら、その奴隷にならず、自分をコントロールできているのは、多分いろいろなコツを持ってるためだと思います。例えば立花さんは「本は、読むものではなく(辞書みたいに)引くものだ」と言ってます。ジャーナリスト出身で大量の情報を処理するすべを学んでる立花さんはそういうコツを他にもたくさん持っているに違いない。
だからそういう人の情報整理は明晰で的確で、お書きになるものもやはりそういう風になってる。でも、そういう人の書くものは面白くないんですよ。整理されすぎちゃって。
情報ツールとして本を自在に使いこなした立花さんは「本を読んだ人」であり「本に読まれた人」ではない。でも興味の対象としてはやや劣るんです。一般人から見たら、立花さんは自分たちよりたくさんの本を買う金を持っていて、たくさんの本を読む時間を持っていて、自分たちにメディアおすすめの本を紹介してくれる人という風に見えてしまいます。「メディアが用意した」とまでいえば言い過ぎになりますが・・・
松岡正剛さんもこの人は大変博識なんだけど、千夜一夜ですか。もう千冊とっくに超えちゃってるけど。あれ全部読むってすごい馬力ですね。
ただその選択があまりにも80年代のニューアカブームを反映していて、なにかと似てるというか・・・ 戦後民主主義の全盛期に岩波文庫のおすすめみたいな特集があったでしょう。推薦人が丸山眞男とか中野良夫とか、今から見るとゲゲッていうようなメンツがゲゲッていうような本を薦めてたやつ。
松岡さんのセレクトはもちろんそれとは比べ物にならないんだけど、やっぱり今の出版界がおすすめしてる流行の・・・・ だから逆にそういうのを全部読破してゆくって、すごい馬力だなあと感心しちゃうんです。
立花さん同様に情報源が多様で、ご本人がある意味『本を超える人』であることだけでなく、立花さん同様、書評欄でおすすめの本ばかりを推薦されてるというか・・・
書かれたもので面白い本は多いし、好きか嫌いかといえば好きなんだけど、一方で小谷野敦が言ってるようなこともよく理解できるんですね。
ここは立花さんのコーナーなのでこれくらいにします。松岡さんを取り上げるときにまた寄せてもらいますよ。それでは失礼します」
☆梅本「今のはいったい何??」
★関谷「というか、あいつは謝ったのか??」
★梅本「最初面白いって言っといて、後で面白くないって・・・」
★関谷「それより、草野さんって一体誰だ??」
☆梅本「いったい何しに来たんでしょう??」
[109] 現代日本の蔵書家7 七万クラスのひとたち
☆梅本「七万クラスの蔵書家はお一人です。池田大作さんです。」
★関谷「ああ そうですか」
☆梅本「創立者池田大作先生は、創価教育の淵源となった創価学会初代会長・牧口常三郎先生、師事された第2代会長・戸田城聖先生のご遺志を受け継ぎ、生命尊厳の哲理を根底に、世界平和と人類社会の発展のために尽力されてきました。」
★関谷「はい」
☆梅本「歴史家アーノルド・トインビー博士、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士など、世界の著名な指導者・知識人との対話は1600回を超えています。」
★関谷「ああ そうですか」
☆梅本「それらは「対談集」としてまとめられ、日本語以外でも現在38言語960点が出版され、創立者が著された小説や詩集などを合わせると、世界中で出版された著作は1500点に及んでいます。これらの功績を讃え、世界の大学・学術機関等から230を超える名誉学術称号が創立者に贈られています。」
★関谷「ああ、そうですか」
☆梅本「『池田文庫』は、創立者が少年時代から読まれた本や、恩師・戸田城聖先生のもとで学んだ教材、激務の中にあっても日々深く研鑽を重ねた書籍を集めたものです。その設置は、1993年に開催された「第22回創価大学滝山祭記念フェスティバル」における創立者の記念講演で発表されました。『15歳のときから集めた本が約7万冊にのぼっている。それらの中には、戦時中、防空壕に入れて守ったため、かなり傷んでいるものもある。その7万冊の本を創価大学に寄贈したい。1冊1冊の本に、私にとって多くの思い出が込められている。どうか読書と研鑽に役立てていただければと思う』(1993年7月3日) この講演の後、4年間の整理期間を経て、1997年5月8日「池田文庫」として開設されました。 」
★関谷「はい」
☆梅本「この10年有余の間、多くの方にこの「池田文庫」は、親しまれてきました。「池田文庫」の内容は、哲学・歴史・政治・経済・芸術・文学などあらゆる分野に渡っています。創立者の思想と行動を学び、それを継承しゆく本学の学生並びに教職員にとって、創価大学の至宝であるこの「池田文庫」は、第二の草創期に入った本学において、ますますその価値を高め、人材輩出の宝庫として輝いていくに違いありません。 以上、創価大学ホームページから池田文庫に関して解説した部分を引用させていただきました」
★関谷「今日ご紹介した蔵書家の方はお一人でした」
★関谷「ああ そうですか」
☆梅本「創立者池田大作先生は、創価教育の淵源となった創価学会初代会長・牧口常三郎先生、師事された第2代会長・戸田城聖先生のご遺志を受け継ぎ、生命尊厳の哲理を根底に、世界平和と人類社会の発展のために尽力されてきました。」
★関谷「はい」
☆梅本「歴史家アーノルド・トインビー博士、ノーベル化学賞・平和賞受賞者のライナス・ポーリング博士など、世界の著名な指導者・知識人との対話は1600回を超えています。」
★関谷「ああ そうですか」
☆梅本「それらは「対談集」としてまとめられ、日本語以外でも現在38言語960点が出版され、創立者が著された小説や詩集などを合わせると、世界中で出版された著作は1500点に及んでいます。これらの功績を讃え、世界の大学・学術機関等から230を超える名誉学術称号が創立者に贈られています。」
★関谷「ああ、そうですか」
☆梅本「『池田文庫』は、創立者が少年時代から読まれた本や、恩師・戸田城聖先生のもとで学んだ教材、激務の中にあっても日々深く研鑽を重ねた書籍を集めたものです。その設置は、1993年に開催された「第22回創価大学滝山祭記念フェスティバル」における創立者の記念講演で発表されました。『15歳のときから集めた本が約7万冊にのぼっている。それらの中には、戦時中、防空壕に入れて守ったため、かなり傷んでいるものもある。その7万冊の本を創価大学に寄贈したい。1冊1冊の本に、私にとって多くの思い出が込められている。どうか読書と研鑽に役立てていただければと思う』(1993年7月3日) この講演の後、4年間の整理期間を経て、1997年5月8日「池田文庫」として開設されました。 」
★関谷「はい」
☆梅本「この10年有余の間、多くの方にこの「池田文庫」は、親しまれてきました。「池田文庫」の内容は、哲学・歴史・政治・経済・芸術・文学などあらゆる分野に渡っています。創立者の思想と行動を学び、それを継承しゆく本学の学生並びに教職員にとって、創価大学の至宝であるこの「池田文庫」は、第二の草創期に入った本学において、ますますその価値を高め、人材輩出の宝庫として輝いていくに違いありません。 以上、創価大学ホームページから池田文庫に関して解説した部分を引用させていただきました」
★関谷「今日ご紹介した蔵書家の方はお一人でした」
2018年12月19日水曜日
[108] 現代日本の蔵書家6 六万クラスのひとたち
☆梅本「今回は六万クラスのお三方です。ここらへんからほんと少なくなってきます」
★関谷「一人目は教育学者の板倉聖宣さんです。理系なんだねこの人。理系の人に蔵書家は少ないんだけどさ」
☆梅本「単に理系っていうより、もっと幅の広い人です。歴史関係に乗り出してきてそっちでも本書いてます。科学の啓蒙書は昔から評判いいですよ。堂々の6万冊です。でも今年亡くなりました」
★関谷「二人目は小説家の司馬遼太郎さんです。この人の本の買い方はもう伝説になってるね、彼が新作に取り組むたびに、神戸中の古本屋からそのテーマの本が一斉に消える」
☆梅本「司馬遼太郎記念館にはドドーっとすごい量の本が展示されてます」
★関谷「あそこにあるのは2万冊だけ。全体では6万。しかし本当の全貌は伺えない・・・ なぜなら司馬さんは本を書き終えると、またそれを売り払うタイプだったから。最も沢山の本を買ったのは司馬さんだったのでは?という見方もある」
☆梅本「ところであの記念館の本棚は安藤忠雄の設計だけど、本がやけるって、あの展示方法じゃ・・・ あいかわらず自分の美意識ばかり追求して顧客のこと考えてないですね安藤忠雄は。コシノジュンコさんの家も安藤忠雄の設計らしいんだけど先生『寒うてかなわん』だって。安藤さんは『あの人は暖房費をケチるんです』とか言って、醜い論争になってます」
★関谷「三人目は評論家の草森紳一さんです。マンションの一室の積み上げられた本の谷間で死体になって発見された人。」
☆梅本「今回紹介した六万クラスの三人は、みなさんホント海千山千ですね・・・・・」
★関谷「もともとは中国文学専攻だそうだけど、著書のテーマは漫画から建築・写真・江戸・ヒトラーと、もうなんでもこいだね。北海道に九メートルの塔のような書庫を建てて、そこに当面使う必要のない3万冊を置く。一方東京の2DKのマンションは4万冊の本で埋まっていた。死んだ時もどこにいるのか分からず、本の谷間で発見されたらしい」
☆梅本「実は草森さんは次の七万クラスで紹介する予定だったんです。遺作の『中国文化大革命の大宣伝』のあとがきに7万って書いてありましたから。でも東京の自宅の本は、ご本人は4万だと思い込んでたけど、死んだあと数えてみたら3万2千しかなかったんだって」
★関谷「今日ご紹介した蔵書家の方は3名です」
★関谷「一人目は教育学者の板倉聖宣さんです。理系なんだねこの人。理系の人に蔵書家は少ないんだけどさ」
☆梅本「単に理系っていうより、もっと幅の広い人です。歴史関係に乗り出してきてそっちでも本書いてます。科学の啓蒙書は昔から評判いいですよ。堂々の6万冊です。でも今年亡くなりました」
★関谷「二人目は小説家の司馬遼太郎さんです。この人の本の買い方はもう伝説になってるね、彼が新作に取り組むたびに、神戸中の古本屋からそのテーマの本が一斉に消える」
☆梅本「司馬遼太郎記念館にはドドーっとすごい量の本が展示されてます」
★関谷「あそこにあるのは2万冊だけ。全体では6万。しかし本当の全貌は伺えない・・・ なぜなら司馬さんは本を書き終えると、またそれを売り払うタイプだったから。最も沢山の本を買ったのは司馬さんだったのでは?という見方もある」
☆梅本「ところであの記念館の本棚は安藤忠雄の設計だけど、本がやけるって、あの展示方法じゃ・・・ あいかわらず自分の美意識ばかり追求して顧客のこと考えてないですね安藤忠雄は。コシノジュンコさんの家も安藤忠雄の設計らしいんだけど先生『寒うてかなわん』だって。安藤さんは『あの人は暖房費をケチるんです』とか言って、醜い論争になってます」
★関谷「三人目は評論家の草森紳一さんです。マンションの一室の積み上げられた本の谷間で死体になって発見された人。」
☆梅本「今回紹介した六万クラスの三人は、みなさんホント海千山千ですね・・・・・」
★関谷「もともとは中国文学専攻だそうだけど、著書のテーマは漫画から建築・写真・江戸・ヒトラーと、もうなんでもこいだね。北海道に九メートルの塔のような書庫を建てて、そこに当面使う必要のない3万冊を置く。一方東京の2DKのマンションは4万冊の本で埋まっていた。死んだ時もどこにいるのか分からず、本の谷間で発見されたらしい」
☆梅本「実は草森さんは次の七万クラスで紹介する予定だったんです。遺作の『中国文化大革命の大宣伝』のあとがきに7万って書いてありましたから。でも東京の自宅の本は、ご本人は4万だと思い込んでたけど、死んだあと数えてみたら3万2千しかなかったんだって」
★関谷「今日ご紹介した蔵書家の方は3名です」
[107] 現代日本の蔵書家5 五万クラスのひとたち
★漂流教室関谷「今日は5万クラスの蔵書家を紹介します」
☆純クレ梅本 「前に蔵書家は一万を越えるレベルになると、グッと人数が減るって言ったでしょう?」
★漂流教室関谷「はい」
☆純クレ梅本 「もう一つの壁が、この5万クラスなんです。ここからさらに数が減ってきます。」
★漂流教室関谷「今まで、一万クラスで紹介したのが34人、二万クラスで紹介したのが21人、三万クラスでは15人、四万クラスでは12人だったよね。」
☆純クレ梅本 「今日は4人です」
★漂流教室関谷「4人?」
☆純クレ梅本 「そんな寂しそうな顔しないでください」
★関谷「じゃあまず・・・植草甚一なんだけど、最後どれぐらいになったんだろう?」
☆梅本「4万冊とも言われてるし、5万に届いたとも・・・・・ はっきりしませんね。でもニューヨークで買い集めた洋書とか多いんでしょうね。この人ジャズのレコードもたくさん持っててそっちはタモリが引き取ってます。4000枚でしたっけ」
★関谷「ミステリ評論家、映画評論家、ジャズ評論家って色んな顔があるんだけど、なんなんだろうこの人」
☆梅本「どれでも一番にならなかったところが魅力なんじゃないんですか? ミステリ評論家としては知人の中島河太郎が最高権威でしょう? 映画評論でも、やはり友人だった淀川さんや双葉さんの方が批評家としてメインの存在になってる。ジャズ評論家としても油井正一の方が・・・ 油井さんは専業だからレコードは倍の8500枚持ってましたね。」
★関谷「雑学屋でもないし・・・海外文化紹介屋かな? しいて言うと、サブカルの元祖になるのかな? 本やレコード以外にグッズコレクターでもあって、そっちは系譜的に所ジョージあたりにつながる。
もともと日本のサブカルには二つの源流があって、一つは植草甚一から高平哲郎を経てタモリに流れる『宝島系』、もう一つは『ガロ系』で70年代初めにそこを乗っ取った赤瀬川源平が自分の弟子二人を編集長にして、前衛的な実験漫画誌をサブカル漫画誌に変えて・・・」
☆梅本「その赤瀬川さんも1万冊クラスで言及しましたね。今の文化人ってみんなサブカル系文化人ばかりになっちゃったけど80年代はじめがターニングポイントなのかしら? 」
★関谷「植草さんの本は大和小で漂流してた時よく読んだよ。直接原書にあたってるから、日本での一般的なあちらの文化の紹介と角度が変わってて、例えば映画評論家でもバザンとかじゃなしにディリス・パウエルとか、漫画でも小野耕世のアメコミ紹介なんかとは違ってて風刺系の本流を・・・」
☆梅本「さて、彼らとは本棚の内容は全然違うんでしょうが、国文学者の曽根博義が堂々の蔵書5万冊です。伊藤整なんかの研究やってた人。この人論文はあるんですけど、著作が見つからなくって。だからアマゾンリンクが作れません。次にフランス文学者の鹿島茂さんがやっぱり五万クラス。洋書中心で、しかもあちらの稀覯書が多いそうですよ。」
★関谷「この人はこれからも増えていくだろうね。やたら一般向けのエッセイや著書が多いのも稀覯本買うためって話だから。それにしても巴里を題材に一体いくつ本を書いてるんだ?」
☆梅本「最後は評論家の森本哲郎さん。自宅に五万冊あったんだけど、他にも二か所にあるっていうから実数はもっと多いと思います。キャスターとして活躍してたのは80年代だからもう知らない人も多いでしょう。あの森本毅のお兄さんなんです。だから兄弟でキャスター。でも今の若い人は久米宏と森本毅の視聴率戦争とか、誰も知らなかったりして」
★関谷「今回紹介した蔵書家の方は四名です。」
☆梅本「ここから上は全国的に名前が通った人ばかりなので、今までみたいに『それ誰?』って人はあまりいなくなりますね」
☆純クレ梅本 「前に蔵書家は一万を越えるレベルになると、グッと人数が減るって言ったでしょう?」
★漂流教室関谷「はい」
☆純クレ梅本 「もう一つの壁が、この5万クラスなんです。ここからさらに数が減ってきます。」
★漂流教室関谷「今まで、一万クラスで紹介したのが34人、二万クラスで紹介したのが21人、三万クラスでは15人、四万クラスでは12人だったよね。」
☆純クレ梅本 「今日は4人です」
★漂流教室関谷「4人?」
☆純クレ梅本 「そんな寂しそうな顔しないでください」
★関谷「じゃあまず・・・植草甚一なんだけど、最後どれぐらいになったんだろう?」
☆梅本「4万冊とも言われてるし、5万に届いたとも・・・・・ はっきりしませんね。でもニューヨークで買い集めた洋書とか多いんでしょうね。この人ジャズのレコードもたくさん持っててそっちはタモリが引き取ってます。4000枚でしたっけ」
★関谷「ミステリ評論家、映画評論家、ジャズ評論家って色んな顔があるんだけど、なんなんだろうこの人」
☆梅本「どれでも一番にならなかったところが魅力なんじゃないんですか? ミステリ評論家としては知人の中島河太郎が最高権威でしょう? 映画評論でも、やはり友人だった淀川さんや双葉さんの方が批評家としてメインの存在になってる。ジャズ評論家としても油井正一の方が・・・ 油井さんは専業だからレコードは倍の8500枚持ってましたね。」
★関谷「雑学屋でもないし・・・海外文化紹介屋かな? しいて言うと、サブカルの元祖になるのかな? 本やレコード以外にグッズコレクターでもあって、そっちは系譜的に所ジョージあたりにつながる。
もともと日本のサブカルには二つの源流があって、一つは植草甚一から高平哲郎を経てタモリに流れる『宝島系』、もう一つは『ガロ系』で70年代初めにそこを乗っ取った赤瀬川源平が自分の弟子二人を編集長にして、前衛的な実験漫画誌をサブカル漫画誌に変えて・・・」
☆梅本「その赤瀬川さんも1万冊クラスで言及しましたね。今の文化人ってみんなサブカル系文化人ばかりになっちゃったけど80年代はじめがターニングポイントなのかしら? 」
★関谷「植草さんの本は大和小で漂流してた時よく読んだよ。直接原書にあたってるから、日本での一般的なあちらの文化の紹介と角度が変わってて、例えば映画評論家でもバザンとかじゃなしにディリス・パウエルとか、漫画でも小野耕世のアメコミ紹介なんかとは違ってて風刺系の本流を・・・」
☆梅本「さて、彼らとは本棚の内容は全然違うんでしょうが、国文学者の曽根博義が堂々の蔵書5万冊です。伊藤整なんかの研究やってた人。この人論文はあるんですけど、著作が見つからなくって。だからアマゾンリンクが作れません。次にフランス文学者の鹿島茂さんがやっぱり五万クラス。洋書中心で、しかもあちらの稀覯書が多いそうですよ。」
★関谷「この人はこれからも増えていくだろうね。やたら一般向けのエッセイや著書が多いのも稀覯本買うためって話だから。それにしても巴里を題材に一体いくつ本を書いてるんだ?」
☆梅本「最後は評論家の森本哲郎さん。自宅に五万冊あったんだけど、他にも二か所にあるっていうから実数はもっと多いと思います。キャスターとして活躍してたのは80年代だからもう知らない人も多いでしょう。あの森本毅のお兄さんなんです。だから兄弟でキャスター。でも今の若い人は久米宏と森本毅の視聴率戦争とか、誰も知らなかったりして」
★関谷「今回紹介した蔵書家の方は四名です。」
☆梅本「ここから上は全国的に名前が通った人ばかりなので、今までみたいに『それ誰?』って人はあまりいなくなりますね」
[106] 現代日本の蔵書家4 四万クラスのひとたち
★漂流教室関谷「では今日は四万越えの蔵書家を。」
☆純クレ梅本 「まずゴージャスな書斎の写真が話題になった京極夏彦がおよそ4万冊。弁当箱みたいな分厚い小説書く人ですよね」
★関谷「文化人類学者の山口昌男が文庫として寄付したのもほぼ4万冊。趣味が多彩で高山宏に萩尾望都の漫画を土産に持ってきたりしてたってさ」
☆梅本「他に、久保覚という著述家が4万あったんじゃないかとか言われてますね。近代日本文学系では稲垣達郎さんも41,834点ありました。でも、それよか佐藤優が不気味なんです」
★関谷「佐藤優がどうしたって?」
☆梅本「『ぼくらの頭脳の鍛え方』という立花隆との対談本で『蔵書は1万5千冊 ひと月の書籍代は 約二十万』とか語ってますけど、これが2009年の出版なんです。それが2012年に出た『読書の技法』という本では4万冊あるって言ってるそうです。わずか三年でこの増え方は凄いですよね。それからさらに9年たってるので今はいくつになってるか分かりません。取り合えず最後に確認できるのが4万なのでここに置いときますが、将来もっと上に置く事になると思います。」
★関谷「こいつは速読の名人で、月平均300冊、多い月は500冊を読むとか言ってたからな・・・」
☆梅本「速読ってよく聞くけど、一体どんな人がやってるんだろうと思ってました。こうなると、愛書家とはもう全然違う世界の人ですよね」
★関谷「佐藤優は外務省の情報分析官だったから、膨大な情報を処理する習慣が・・・。」
☆梅本「せっかく欲しかった本を買って速読なんて味気ないですよねえ。でも忙しいビジネスマンとかはそうでもしないとたくさん本読めないのかな。
前にこのブログで平岩外四が3万冊集めたって管理人が書いてましたけど、死んだ時には4万2千冊を文庫に寄付してます。あれは平岩さんの著書からの情報で、そのあとまた増えてたんですね。財界を代表する読書家。読んできた膨大な本の中でベストは『孟子』と『韓非子』だそうです」
★関谷「戦後の財界人では、ずっとこの人の蔵書が一番多いって言われてたね・・・」
☆梅本「今はもうちょっと上がいるんです。日本マイクロソフトの成毛眞社長です。1万5千+別荘に3万冊。」
★関谷「人はこれくらい持ってると必ず蔵書をテーマに本を書きたがる。この人もそうだね。」
☆梅本「2000冊もないのにこういうブログを始める管理人にくらべたらまだましですよ」
★関谷「政治家で一番持ってたのは誰だろう」
☆梅本「前尾繁三郎がやっぱりこの4万冊クラスなんです。」
★関谷「誰?」
☆梅本「大蔵OBで、宏池会の領袖も務めた大物じゃないですか。この派閥からは前任の池田勇人が総理になってるし、後任も大平・鈴木・宮沢と三代続いて首相ですよ。まかり間違えば自分も総理になりかねなかった人。一部で3万5千冊っていう違う情報もありますけど、亡くなるときには4万くらいになってたらしいです。国会にある本屋から毎月出る本を全部買い入れてたそうです」
★関谷「井上ひさしみたいなことする人がほかにもいたんだね」
☆梅本「あとトンデモライターの志水一夫が、4万3千あったそうです。こういう人の蔵書内容が案外面白そうですね」
★関谷「神田では蔵書家として名高かった高見順もこのくらいじゃなかった?」
☆梅本「作家の高見順さんは49,081点を文庫へ寄付しています。でも原稿・草稿、諸家書簡、遺品が混じってるんです。原稿・草稿類が400点、書簡が48通、諸家書簡が5000通っていいますから、本だけだと4万3千ぐらいはあるようですね。」
★梅本「今日ご紹介する最後の人は滑川道夫さんで、文庫に44,060点を寄付されてます。」
☆関谷「誰だそれは? ドラえもんのスネ夫の親戚か?」
★梅本「骨川じゃありません。滑川(なめりかわ)です。児童文学の研究家です。私もこの人は知りませんでした。ほとんどが昔の児童文学のコレクションで、「穎才新誌」「今世少年」「少年世界」「童話時代」などの児童雑誌、巖谷小波の初版本やちりめん本・・・ もう手に入らない貴重なものが多いみたい。本と雑誌はそのうち4万2千冊だそうです」
★関谷「では、次回からいよいよ5万越えの人を」
☆梅本「蔵書家も5万越えると大変なものですね。江戸時代なら屋代弘賢クラスで一般個人では最大級ですから」
☆関谷「今日ご紹介した蔵書家は12名でした。漂流教室関谷と」
☆梅本「純情クレイジーフルーツ梅本がおおくりしました」
☆純クレ梅本 「まずゴージャスな書斎の写真が話題になった京極夏彦がおよそ4万冊。弁当箱みたいな分厚い小説書く人ですよね」
★関谷「文化人類学者の山口昌男が文庫として寄付したのもほぼ4万冊。趣味が多彩で高山宏に萩尾望都の漫画を土産に持ってきたりしてたってさ」
☆梅本「他に、久保覚という著述家が4万あったんじゃないかとか言われてますね。近代日本文学系では稲垣達郎さんも41,834点ありました。でも、それよか佐藤優が不気味なんです」
★関谷「佐藤優がどうしたって?」
☆梅本「『ぼくらの頭脳の鍛え方』という立花隆との対談本で『蔵書は1万5千冊 ひと月の書籍代は 約二十万』とか語ってますけど、これが2009年の出版なんです。それが2012年に出た『読書の技法』という本では4万冊あるって言ってるそうです。わずか三年でこの増え方は凄いですよね。それからさらに9年たってるので今はいくつになってるか分かりません。取り合えず最後に確認できるのが4万なのでここに置いときますが、将来もっと上に置く事になると思います。」
★関谷「こいつは速読の名人で、月平均300冊、多い月は500冊を読むとか言ってたからな・・・」
☆梅本「速読ってよく聞くけど、一体どんな人がやってるんだろうと思ってました。こうなると、愛書家とはもう全然違う世界の人ですよね」
★関谷「佐藤優は外務省の情報分析官だったから、膨大な情報を処理する習慣が・・・。」
☆梅本「せっかく欲しかった本を買って速読なんて味気ないですよねえ。でも忙しいビジネスマンとかはそうでもしないとたくさん本読めないのかな。
前にこのブログで平岩外四が3万冊集めたって管理人が書いてましたけど、死んだ時には4万2千冊を文庫に寄付してます。あれは平岩さんの著書からの情報で、そのあとまた増えてたんですね。財界を代表する読書家。読んできた膨大な本の中でベストは『孟子』と『韓非子』だそうです」
★関谷「戦後の財界人では、ずっとこの人の蔵書が一番多いって言われてたね・・・」
☆梅本「今はもうちょっと上がいるんです。日本マイクロソフトの成毛眞社長です。1万5千+別荘に3万冊。」
★関谷「人はこれくらい持ってると必ず蔵書をテーマに本を書きたがる。この人もそうだね。」
☆梅本「2000冊もないのにこういうブログを始める管理人にくらべたらまだましですよ」
★関谷「政治家で一番持ってたのは誰だろう」
☆梅本「前尾繁三郎がやっぱりこの4万冊クラスなんです。」
★関谷「誰?」
☆梅本「大蔵OBで、宏池会の領袖も務めた大物じゃないですか。この派閥からは前任の池田勇人が総理になってるし、後任も大平・鈴木・宮沢と三代続いて首相ですよ。まかり間違えば自分も総理になりかねなかった人。一部で3万5千冊っていう違う情報もありますけど、亡くなるときには4万くらいになってたらしいです。国会にある本屋から毎月出る本を全部買い入れてたそうです」
★関谷「井上ひさしみたいなことする人がほかにもいたんだね」
☆梅本「あとトンデモライターの志水一夫が、4万3千あったそうです。こういう人の蔵書内容が案外面白そうですね」
★関谷「神田では蔵書家として名高かった高見順もこのくらいじゃなかった?」
☆梅本「作家の高見順さんは49,081点を文庫へ寄付しています。でも原稿・草稿、諸家書簡、遺品が混じってるんです。原稿・草稿類が400点、書簡が48通、諸家書簡が5000通っていいますから、本だけだと4万3千ぐらいはあるようですね。」
★梅本「今日ご紹介する最後の人は滑川道夫さんで、文庫に44,060点を寄付されてます。」
☆関谷「誰だそれは? ドラえもんのスネ夫の親戚か?」
★梅本「骨川じゃありません。滑川(なめりかわ)です。児童文学の研究家です。私もこの人は知りませんでした。ほとんどが昔の児童文学のコレクションで、「穎才新誌」「今世少年」「少年世界」「童話時代」などの児童雑誌、巖谷小波の初版本やちりめん本・・・ もう手に入らない貴重なものが多いみたい。本と雑誌はそのうち4万2千冊だそうです」
★関谷「では、次回からいよいよ5万越えの人を」
☆梅本「蔵書家も5万越えると大変なものですね。江戸時代なら屋代弘賢クラスで一般個人では最大級ですから」
☆関谷「今日ご紹介した蔵書家は12名でした。漂流教室関谷と」
☆梅本「純情クレイジーフルーツ梅本がおおくりしました」
2018年12月13日木曜日
[105] 現代日本の蔵書家3 三万クラスのひとたち
☆梅本「今日は3万越えの人を紹介していきます」
★関谷「ここらあたりからちょっとヘビーになってくるね」
☆梅本「まずライターの岡崎武志さん。『蔵書の苦しみ』をはじめとする古書関連の著書が多いだけにさすがの3万冊。それと前前回触れた森繁久彌さんの書庫がやっぱりそれぐらいあります。芸能人では最大かな? あと政治家の佐川一信ってひとがやっぱり3万冊」
★関谷「蔵書3万冊クラスで一番蔵書家らしい人は由良君美じゃないのかな? 幻想文学の専門家だし、稀覯本の収集家として名高かった。」
☆梅本「評論家の紀田順一郎も蔵書家としては有名ですよ。『蔵書一代』って本書いてます。やはり所蔵数は3万ほどでした。」
★関谷「でも3万クラスで一番有名な蔵書家は、なんてったって松本清張だろ。日本における本格推理小説の元祖の江戸川乱歩が2万なのに対して、変格推理小説の代表格である松本清張は3万冊。しかも清張は執筆のために大量の資料を買い込んで、執筆が終わったらそれを処分するタイプだった。それで書庫に3万も残るって凄いよな・・・ 処分しなかったらどれぐらいになってたか」
☆梅本「作家といえば、舟橋聖一記念館に、図書17500と総合・文芸・婦人雑誌など8400冊、それと大正末期から戦後までの文芸同人誌5200冊が保存されてます。しめて31100冊ですが、記念館側は37500冊と謳ってます。でもこれは舟橋聖一に関係する本とか原稿やスクラップ張も加えた数なので、本人の蔵書自体は3万1千冊ちょいですね。」
★関谷「ライバルの丹羽文雄はどれぐらい?」
☆梅本「ちょっと今は分かりません。分かったらまた追加します。先を続けますが、中国の対外関係史の権威の榎一雄さんも貴重な資料を多くお持ちでした。3万冊を東洋文庫に寄付されています。」
★関谷「この人は自身が東洋文庫の文庫長を務めてたんだよね。ここはモリソンや和田維四郎ほか色んな人の蔵書が入ってる」
☆梅本「石田幹之助以来、稀覯本の巣窟の東洋文庫へ自分の蔵書を寄付できる自信が凄いですね。理事長だから東洋文庫の内容は熟知してるはずなのに。」
★関谷「今日も紹介する人が多いのでどんどん続けてください」
☆梅本「近世文学が専門の中村幸彦さんも文庫に寄付してるんですが、内容は和漢の古書が15500冊、現代書(和・洋・中)が17500で計3万3千。該博な知識で知られた人だけにかなりの数です。質も高く天下の孤本とされる南宋版『尚書註疏』もあったそうです。科学史家の吉田光邦も同じぐらいの量です。まず図書が29000、雑誌パンフレット4000を加えて、計3万3千冊。
国文学の和田茂樹がそれよかちょっと多くて3万5千冊。」
★関谷「和田茂樹? 聞いたような名前だな。」
☆梅本「確かにどこかで聞いたような感じの名前だけど、多分ご存じない人だと思います。愛媛大の教授で愛媛県の郷土史的な研究が多い人だから。いわゆる地方名士です。それよかテレビでよくみる三枝成章さんが3万5千冊あるって。それと岡田斗司夫の最盛期は3万7千冊あったけど、処分して1000冊だけ残したってそういう話もありますよ。」
★関谷「あの人は基本的にダイエットの好きな人だったんだね」
☆梅本「『本の奴隷になりたくない』って言ってたそうです。分かるような気もしますね。」
★関谷「さっき触れた紀田純一郎も、3万冊を処分して600冊だけにしたそうだな」
☆梅本「本棚にして二つか三つといったところですね。これならもう普通の人の蔵書と変わりません・・・ これぐらいの蔵書が実は一番幸せだったりして」
★関谷「それはわからない。人それぞれだろう」
☆梅本「で、この三万クラスで一番問題になる蔵書家はやはり・・・」
★関谷「そう、丸山眞男」
☆梅本「一部でおおざっぱに3万冊って言われてたけど、東京女子大に寄付された丸山眞男文庫の内容は約18,000冊の図書と18,000冊の雑誌で計3万6千冊。」
★関谷「丸山眞男で凄いのは、 バーチャル書庫 の存在だね。家の間取り図から、どこにどんな本があったかまで、生前の丸山の書斎の様子が再現されてる」
☆梅本「書斎というより玄関先から応接間に至るまで本棚がある特殊な家ですね。家じゅう本だらけ。これは家族が嫌がるわ」
★関谷「戦後を代表する政治学者の蔵書内容までわかるので大変参考になる。丸山が亡くなったときのNHKの追悼番組で、書斎に入った弟子の学者が「大変価値のあるものとそうでないものと半々ですね」とか言ってたけど、確かに結構あたりまえのものが多い。鴎外の蔵書もそうだったというが・・・」
☆梅本「それと、昔からあの人の本を読んでいて感じてたんですけど、丸山さんの知的フィールドには密教関係がすっぽり抜けてるというか、死後発売された四巻セットの日本思想史の講義録でも、仏教面ではいきなり古代から鎌倉仏教に飛んじゃうでしょう。台密や東密は政治的にも思想的にも日本仏教の最要所なのに。そうしたら、じっさいに本棚をみても密教関係のものが・・・」
★関谷「他にくらべてかなり弱いな。ただ学者の仕事場は研究室なのでそっちの蔵書もみてみないと・・・ それと東京女子大に寄付した以外にもあったはずだし」
☆梅本「一つ微笑ましいのは、あの丸山さんがクラシックの名盤指南の本に宇野功芳本を使ってたことですね!」
★関谷「ところで羽仁五郎って在野の歴史家がいたろう? あれも三万ぐらいじゃなかったかい?」
☆梅本「あ 羽仁夫妻を忘れてました。羽仁五郎と説子の共同蔵書が、6517冊の和書と6660冊の洋書と6953冊の雑誌で、しめて2万120冊です。これは文庫に寄付されてますね。それプラス、羽仁五郎単独でも別に文庫に寄付してて、こちらは和書2584冊、洋書1143冊 雑誌6343冊で計9770冊。3万にはちょっと足りないんですが、たぶん持ってる本全部寄付したわけでもなし、100冊足りないぐらいならここに置いてもいいでしょう。他に非図書資料も1万5645あることだし。」
★関谷「この夫婦は研究機関の蔵書を利用しにくかったので、自分達でここまで資料を貯め込まなきゃならかったんだろう。二人の間にできた息子は映画監督の羽仁進だっけ?」
☆梅本「この家へ左幸子さんが嫁いだんだけど、姑と舅にいびり出されたんだって。夫である羽仁進まで向こうの味方になったって。子供も向こうに取られたって左さんテレビで言ってました。」
★関谷「女優さんがゴリゴリのマルクス主義者の家に嫁ぐもんじゃないよな。在野で学者やってる変わり者の蔵書家夫婦と大体そりが合うはずないだろ」
☆梅本「それより息子があっちに寝返ったのが許せませんね。」
★関谷「羽仁進といえばATGの『初恋地獄変』だが、あの映画での『俊ちゃん、女房出かけたよ』というのは日本映画史上で最も恐ろしいセリフだな。今もたまに夢でうなされるよ・・・」
★関谷「さて、今日最後の人は誰かな?」
☆梅本「向坂逸郎さんです。日本語書籍21390冊、外国語書籍9881冊、邦雑誌3393、洋雑誌591。しめて35255冊。」
★関谷「この人はやっぱり資本論だね。日本の左翼はみんなこの人の訳で資本論を読んだ。」
☆梅本「私も正直ここまでの蔵書家だとは知りませんでした。特にマルクス主義文献の蒐集では旧ソ連のマルクス・レーニン主義研究所の人が驚くほどだったそうです。」
★関谷「wikiを読むと、保守系の谷沢永一や渡部昇一ですら『マルクス主義文献の収集家としてはトップクラス』だと見てたらしい」
☆梅本「でも同じくwikiには、東郷健との対談で『ソヴィエト社会主義社会になればお前の病気(オカマ)は治ってしまう』『こんな変な人間連れて来るならもう小学館の取材には一切応じない』とか言って、怒った東郷健は席を立ったって! 今こんなこと言ったらえらいことですよ。あっはっは 」
★関谷「マルクスの日本語訳には名訳が多くて、城塚登の「経哲草稿」とか前回触れた古在由重の「ドイツイデオロギー」は今読んでもたいしたもんだ。とりわけ、この人の訳した岩波文庫の資本論は素晴らしい。それにはこういう膨大な資料がバックボーンとして存在していたんだな」
☆梅本「一昔前の日本のマルクス主義研究者の層の厚さはちょっと異常でしたもんね」
★関谷「俺は今の若い奴らに言ってやりたいね。お前らマルクスなんて鼻で笑ってるんだろうが、「経済学・哲学草稿」から「神聖家族」と「フォイエルバッハテーゼ」を経て、「ドイツイデオロギー」に至る初期のマルクスの、類的存在論から史的唯物論へ展開してゆく思想的発展に一体触れたことがあるのかと・・・ そりゃ、あってるか間違ってるかと問われれば、間違ってるんだろうけど・・・」
☆梅本「今日、ご紹介した蔵書家の方は15名でした。」
★関谷「ここらあたりからちょっとヘビーになってくるね」
☆梅本「まずライターの岡崎武志さん。『蔵書の苦しみ』をはじめとする古書関連の著書が多いだけにさすがの3万冊。それと前前回触れた森繁久彌さんの書庫がやっぱりそれぐらいあります。芸能人では最大かな? あと政治家の佐川一信ってひとがやっぱり3万冊」
★関谷「蔵書3万冊クラスで一番蔵書家らしい人は由良君美じゃないのかな? 幻想文学の専門家だし、稀覯本の収集家として名高かった。」
☆梅本「評論家の紀田順一郎も蔵書家としては有名ですよ。『蔵書一代』って本書いてます。やはり所蔵数は3万ほどでした。」
★関谷「でも3万クラスで一番有名な蔵書家は、なんてったって松本清張だろ。日本における本格推理小説の元祖の江戸川乱歩が2万なのに対して、変格推理小説の代表格である松本清張は3万冊。しかも清張は執筆のために大量の資料を買い込んで、執筆が終わったらそれを処分するタイプだった。それで書庫に3万も残るって凄いよな・・・ 処分しなかったらどれぐらいになってたか」
☆梅本「作家といえば、舟橋聖一記念館に、図書17500と総合・文芸・婦人雑誌など8400冊、それと大正末期から戦後までの文芸同人誌5200冊が保存されてます。しめて31100冊ですが、記念館側は37500冊と謳ってます。でもこれは舟橋聖一に関係する本とか原稿やスクラップ張も加えた数なので、本人の蔵書自体は3万1千冊ちょいですね。」
★関谷「ライバルの丹羽文雄はどれぐらい?」
☆梅本「ちょっと今は分かりません。分かったらまた追加します。先を続けますが、中国の対外関係史の権威の榎一雄さんも貴重な資料を多くお持ちでした。3万冊を東洋文庫に寄付されています。」
★関谷「この人は自身が東洋文庫の文庫長を務めてたんだよね。ここはモリソンや和田維四郎ほか色んな人の蔵書が入ってる」
☆梅本「石田幹之助以来、稀覯本の巣窟の東洋文庫へ自分の蔵書を寄付できる自信が凄いですね。理事長だから東洋文庫の内容は熟知してるはずなのに。」
★関谷「今日も紹介する人が多いのでどんどん続けてください」
☆梅本「近世文学が専門の中村幸彦さんも文庫に寄付してるんですが、内容は和漢の古書が15500冊、現代書(和・洋・中)が17500で計3万3千。該博な知識で知られた人だけにかなりの数です。質も高く天下の孤本とされる南宋版『尚書註疏』もあったそうです。科学史家の吉田光邦も同じぐらいの量です。まず図書が29000、雑誌パンフレット4000を加えて、計3万3千冊。
国文学の和田茂樹がそれよかちょっと多くて3万5千冊。」
★関谷「和田茂樹? 聞いたような名前だな。」
☆梅本「確かにどこかで聞いたような感じの名前だけど、多分ご存じない人だと思います。愛媛大の教授で愛媛県の郷土史的な研究が多い人だから。いわゆる地方名士です。それよかテレビでよくみる三枝成章さんが3万5千冊あるって。それと岡田斗司夫の最盛期は3万7千冊あったけど、処分して1000冊だけ残したってそういう話もありますよ。」
★関谷「あの人は基本的にダイエットの好きな人だったんだね」
☆梅本「『本の奴隷になりたくない』って言ってたそうです。分かるような気もしますね。」
★関谷「さっき触れた紀田純一郎も、3万冊を処分して600冊だけにしたそうだな」
☆梅本「本棚にして二つか三つといったところですね。これならもう普通の人の蔵書と変わりません・・・ これぐらいの蔵書が実は一番幸せだったりして」
★関谷「それはわからない。人それぞれだろう」
☆梅本「で、この三万クラスで一番問題になる蔵書家はやはり・・・」
★関谷「そう、丸山眞男」
☆梅本「一部でおおざっぱに3万冊って言われてたけど、東京女子大に寄付された丸山眞男文庫の内容は約18,000冊の図書と18,000冊の雑誌で計3万6千冊。」
★関谷「丸山眞男で凄いのは、 バーチャル書庫 の存在だね。家の間取り図から、どこにどんな本があったかまで、生前の丸山の書斎の様子が再現されてる」
☆梅本「書斎というより玄関先から応接間に至るまで本棚がある特殊な家ですね。家じゅう本だらけ。これは家族が嫌がるわ」
★関谷「戦後を代表する政治学者の蔵書内容までわかるので大変参考になる。丸山が亡くなったときのNHKの追悼番組で、書斎に入った弟子の学者が「大変価値のあるものとそうでないものと半々ですね」とか言ってたけど、確かに結構あたりまえのものが多い。鴎外の蔵書もそうだったというが・・・」
☆梅本「それと、昔からあの人の本を読んでいて感じてたんですけど、丸山さんの知的フィールドには密教関係がすっぽり抜けてるというか、死後発売された四巻セットの日本思想史の講義録でも、仏教面ではいきなり古代から鎌倉仏教に飛んじゃうでしょう。台密や東密は政治的にも思想的にも日本仏教の最要所なのに。そうしたら、じっさいに本棚をみても密教関係のものが・・・」
★関谷「他にくらべてかなり弱いな。ただ学者の仕事場は研究室なのでそっちの蔵書もみてみないと・・・ それと東京女子大に寄付した以外にもあったはずだし」
☆梅本「一つ微笑ましいのは、あの丸山さんがクラシックの名盤指南の本に宇野功芳本を使ってたことですね!」
★関谷「ところで羽仁五郎って在野の歴史家がいたろう? あれも三万ぐらいじゃなかったかい?」
☆梅本「あ 羽仁夫妻を忘れてました。羽仁五郎と説子の共同蔵書が、6517冊の和書と6660冊の洋書と6953冊の雑誌で、しめて2万120冊です。これは文庫に寄付されてますね。それプラス、羽仁五郎単独でも別に文庫に寄付してて、こちらは和書2584冊、洋書1143冊 雑誌6343冊で計9770冊。3万にはちょっと足りないんですが、たぶん持ってる本全部寄付したわけでもなし、100冊足りないぐらいならここに置いてもいいでしょう。他に非図書資料も1万5645あることだし。」
★関谷「この夫婦は研究機関の蔵書を利用しにくかったので、自分達でここまで資料を貯め込まなきゃならかったんだろう。二人の間にできた息子は映画監督の羽仁進だっけ?」
☆梅本「この家へ左幸子さんが嫁いだんだけど、姑と舅にいびり出されたんだって。夫である羽仁進まで向こうの味方になったって。子供も向こうに取られたって左さんテレビで言ってました。」
★関谷「女優さんがゴリゴリのマルクス主義者の家に嫁ぐもんじゃないよな。在野で学者やってる変わり者の蔵書家夫婦と大体そりが合うはずないだろ」
☆梅本「それより息子があっちに寝返ったのが許せませんね。」
★関谷「羽仁進といえばATGの『初恋地獄変』だが、あの映画での『俊ちゃん、女房出かけたよ』というのは日本映画史上で最も恐ろしいセリフだな。今もたまに夢でうなされるよ・・・」
★関谷「さて、今日最後の人は誰かな?」
☆梅本「向坂逸郎さんです。日本語書籍21390冊、外国語書籍9881冊、邦雑誌3393、洋雑誌591。しめて35255冊。」
★関谷「この人はやっぱり資本論だね。日本の左翼はみんなこの人の訳で資本論を読んだ。」
☆梅本「私も正直ここまでの蔵書家だとは知りませんでした。特にマルクス主義文献の蒐集では旧ソ連のマルクス・レーニン主義研究所の人が驚くほどだったそうです。」
★関谷「wikiを読むと、保守系の谷沢永一や渡部昇一ですら『マルクス主義文献の収集家としてはトップクラス』だと見てたらしい」
☆梅本「でも同じくwikiには、東郷健との対談で『ソヴィエト社会主義社会になればお前の病気(オカマ)は治ってしまう』『こんな変な人間連れて来るならもう小学館の取材には一切応じない』とか言って、怒った東郷健は席を立ったって! 今こんなこと言ったらえらいことですよ。あっはっは 」
★関谷「マルクスの日本語訳には名訳が多くて、城塚登の「経哲草稿」とか前回触れた古在由重の「ドイツイデオロギー」は今読んでもたいしたもんだ。とりわけ、この人の訳した岩波文庫の資本論は素晴らしい。それにはこういう膨大な資料がバックボーンとして存在していたんだな」
☆梅本「一昔前の日本のマルクス主義研究者の層の厚さはちょっと異常でしたもんね」
★関谷「俺は今の若い奴らに言ってやりたいね。お前らマルクスなんて鼻で笑ってるんだろうが、「経済学・哲学草稿」から「神聖家族」と「フォイエルバッハテーゼ」を経て、「ドイツイデオロギー」に至る初期のマルクスの、類的存在論から史的唯物論へ展開してゆく思想的発展に一体触れたことがあるのかと・・・ そりゃ、あってるか間違ってるかと問われれば、間違ってるんだろうけど・・・」
☆梅本「今日、ご紹介した蔵書家の方は15名でした。」
[104] 現代日本の蔵書家たち2 二万クラスのひとたち
★関谷「じゃ今日は2万冊越えの蔵書家を」
☆梅本「富永正一ってブロガーが2万冊あるらしいです。それと作家の日垣隆って人。蔵書2万冊で本棚が百本あるそうです」
★関谷「もっと有名どころでは?」
☆梅本「その言い方は日垣さんにかなり失礼ですけど、ムツゴロウ・・・・畑正憲がやっぱり2万冊。水上勉さんも2万冊です。これくらい有名な作家さんなら文句ないですよね?
水上勉のように国民的に名前が通った作家の場合、死んだら必ず記念館が立ちますから、生前の蔵書などはそこで保管されることが多いです。大佛次郎や司馬遼太郎もそうでした。」
★関谷「こういうのが本にとっては一番幸せなパターンなのかな?」
☆梅本「それと・・・だいぶ前に亡くなった評論家の加藤周一も2万冊。」
★関谷「加藤周一ぐらい論域が広ければそれぐらいあってもまあおかしくないね」
☆梅本「それと下村寅太郎さんは・・・ これがちょっと面白いんです。洋書が一万冊、和書が一万冊で計二万冊なんですが、洋書一万冊は関東学院大学に寄付、和書一万冊は関西学院大学に寄付です。」
★関谷「ほぉー。スッキリしてるというかハッキリしてて分かりやすいね。この人は西田幾多郎門下で京都学派の長老なんだけど、あのややこしい理屈をこねくり回すグループの中で、ルネサンス文化史とか、書く本も割とわかりやすい人ですよ」
☆梅本「昭和を代表する漢学者の諸橋徹次さんも2万冊なんですが・・・」
★関谷「たしか岩崎家の静嘉堂文庫に吸収されたんだよな。あそこは三菱の財力でいろんな蔵書家の蒐集を買収して巨大化した。」
☆梅本「ええ、でも息子さんの諸橋晋六氏が三菱商事で社長・会長を務めて三菱グループの大幹部になっちゃうんです。それで三菱系の静嘉堂文庫の理事長にも就任するんです。」
★関谷「親の仇を息子がとったのか! 」
☆梅本「あっぱれな息子ですね。
さあ先を続けましょう。広辞苑を編纂した新村出が大阪市大に7579冊を寄付してますが、他に雑誌があってそれを含めたら2万を越えるそうです。そして日本近世史の泰斗、小葉田淳先生も2万冊です。うち雑誌が9400冊です。」
★関谷「あの・・・閲覧者の方も一応わかってると思うんだけど・・・学者の蔵書における雑誌というのは専門的な学術誌であって、週刊文春とか婦人画報とかじゃないからな」
☆梅本「そんなの当り前ですよ。でも作家の蔵書における「雑誌」の場合は、基本はやはり文芸誌なんですけどそういうものも結構あったりするんです。だから要注意です。さて、伊藤忠の調査部長だった三輪裕範さんも2万冊。この人いろいろ著書も多いです。あと日弁連会長の和島岩吉も2万ぐらい。財界人では資生堂会長の福原義春がオフィスに1000冊と自宅に2万冊。2万クラスはあと、食べ物関係のうんちくで最近テレビに出てる小泉武夫って人もです。それと・・・」
★関谷「それと?」
☆梅本「荒木精之さんです。本と雑誌で2万783」
★関谷「これは一体誰? ひょっとしてまた地方の名士?」
☆梅本「熊本の地方文化人で小説家で思想家だそうです。私も恥ずかしながらこの方は全く存じ上げませんでした」
★関谷「熊本では有名な人なんだね。もうちょっと上いって二万五千ぐらいの人は?」
☆梅本「えーと・・・ プログラマの小飼弾に・・・」
★関谷「それと?」
☆梅本「日本中世史の最高権威だった石井進教授」
★関谷「案外早く死んだ人だね。こういう人は専門の本はみんな研究室にあるから、自宅のはそれを離れて知識を広げていくための・・・」
☆梅本「専門以外に何でも知ってるタイプ。丸山眞男とかそうですもんね。
ただ、中国文学の吉川幸次郎さんがやっぱり2万4千ぐらいあるんですが、これなんかどうなんでしょうね? 」
★関谷「これは文庫に寄付のパターンだから漢籍ギッシリじゃないかな。よく分からないけど」
☆梅本「戦後を代表する考古学者の末永雅雄先生ですが、この方も2万5千ありました。ただ内訳をみると発掘報告が3000あって、逐次刊行物が1万1750なんです。」
★関谷「逐次刊行物はともかく、発掘報告まで蔵書に入れていいのかって問題だな。これは資料といった方がいいかもしれませんね」
☆梅本「うーん、発掘報告抜きでも2万は越えてる人なんで一応このページで紹介しておきます。えー引き続き先へ進めます。2万台も後半にさしかかります。
ハンガリー文学者の徳永康元という人が2万~3万と言われてるんですが、もうちょっとはっきりした数になると、吉田精一さんが文庫に本雑誌など27,354点を寄付してます。」
★関谷「明治以後の日本文学の研究者は星の数ほどいるけど、学士院の会員に選ばれたのはこの人一人なんだよな。東大の教授だから研究環境は完璧なはずで、それ以外にこれだけ私蔵してたって、一体どんな本なんだろうね?」
☆梅本「さあ今日最後の人です。マルクス主義哲学者の古在由重さんで、2万8865冊です。これはもう3万に近いですね。」
★関谷「この人の岩波文庫の「ドイツイデオロギー」は名訳だったな。」
☆梅本「今回、2万クラスで紹介した蔵書家の方は計21名でした。」
☆梅本「富永正一ってブロガーが2万冊あるらしいです。それと作家の日垣隆って人。蔵書2万冊で本棚が百本あるそうです」
★関谷「もっと有名どころでは?」
☆梅本「その言い方は日垣さんにかなり失礼ですけど、ムツゴロウ・・・・畑正憲がやっぱり2万冊。水上勉さんも2万冊です。これくらい有名な作家さんなら文句ないですよね?
水上勉のように国民的に名前が通った作家の場合、死んだら必ず記念館が立ちますから、生前の蔵書などはそこで保管されることが多いです。大佛次郎や司馬遼太郎もそうでした。」
★関谷「こういうのが本にとっては一番幸せなパターンなのかな?」
☆梅本「それと・・・だいぶ前に亡くなった評論家の加藤周一も2万冊。」
★関谷「加藤周一ぐらい論域が広ければそれぐらいあってもまあおかしくないね」
☆梅本「それと下村寅太郎さんは・・・ これがちょっと面白いんです。洋書が一万冊、和書が一万冊で計二万冊なんですが、洋書一万冊は関東学院大学に寄付、和書一万冊は関西学院大学に寄付です。」
★関谷「ほぉー。スッキリしてるというかハッキリしてて分かりやすいね。この人は西田幾多郎門下で京都学派の長老なんだけど、あのややこしい理屈をこねくり回すグループの中で、ルネサンス文化史とか、書く本も割とわかりやすい人ですよ」
☆梅本「昭和を代表する漢学者の諸橋徹次さんも2万冊なんですが・・・」
★関谷「たしか岩崎家の静嘉堂文庫に吸収されたんだよな。あそこは三菱の財力でいろんな蔵書家の蒐集を買収して巨大化した。」
☆梅本「ええ、でも息子さんの諸橋晋六氏が三菱商事で社長・会長を務めて三菱グループの大幹部になっちゃうんです。それで三菱系の静嘉堂文庫の理事長にも就任するんです。」
★関谷「親の仇を息子がとったのか! 」
☆梅本「あっぱれな息子ですね。
さあ先を続けましょう。広辞苑を編纂した新村出が大阪市大に7579冊を寄付してますが、他に雑誌があってそれを含めたら2万を越えるそうです。そして日本近世史の泰斗、小葉田淳先生も2万冊です。うち雑誌が9400冊です。」
★関谷「あの・・・閲覧者の方も一応わかってると思うんだけど・・・学者の蔵書における雑誌というのは専門的な学術誌であって、週刊文春とか婦人画報とかじゃないからな」
☆梅本「そんなの当り前ですよ。でも作家の蔵書における「雑誌」の場合は、基本はやはり文芸誌なんですけどそういうものも結構あったりするんです。だから要注意です。さて、伊藤忠の調査部長だった三輪裕範さんも2万冊。この人いろいろ著書も多いです。あと日弁連会長の和島岩吉も2万ぐらい。財界人では資生堂会長の福原義春がオフィスに1000冊と自宅に2万冊。2万クラスはあと、食べ物関係のうんちくで最近テレビに出てる小泉武夫って人もです。それと・・・」
★関谷「それと?」
☆梅本「荒木精之さんです。本と雑誌で2万783」
★関谷「これは一体誰? ひょっとしてまた地方の名士?」
☆梅本「熊本の地方文化人で小説家で思想家だそうです。私も恥ずかしながらこの方は全く存じ上げませんでした」
★関谷「熊本では有名な人なんだね。もうちょっと上いって二万五千ぐらいの人は?」
☆梅本「えーと・・・ プログラマの小飼弾に・・・」
★関谷「それと?」
☆梅本「日本中世史の最高権威だった石井進教授」
★関谷「案外早く死んだ人だね。こういう人は専門の本はみんな研究室にあるから、自宅のはそれを離れて知識を広げていくための・・・」
☆梅本「専門以外に何でも知ってるタイプ。丸山眞男とかそうですもんね。
ただ、中国文学の吉川幸次郎さんがやっぱり2万4千ぐらいあるんですが、これなんかどうなんでしょうね? 」
★関谷「これは文庫に寄付のパターンだから漢籍ギッシリじゃないかな。よく分からないけど」
☆梅本「戦後を代表する考古学者の末永雅雄先生ですが、この方も2万5千ありました。ただ内訳をみると発掘報告が3000あって、逐次刊行物が1万1750なんです。」
★関谷「逐次刊行物はともかく、発掘報告まで蔵書に入れていいのかって問題だな。これは資料といった方がいいかもしれませんね」
☆梅本「うーん、発掘報告抜きでも2万は越えてる人なんで一応このページで紹介しておきます。えー引き続き先へ進めます。2万台も後半にさしかかります。
ハンガリー文学者の徳永康元という人が2万~3万と言われてるんですが、もうちょっとはっきりした数になると、吉田精一さんが文庫に本雑誌など27,354点を寄付してます。」
★関谷「明治以後の日本文学の研究者は星の数ほどいるけど、学士院の会員に選ばれたのはこの人一人なんだよな。東大の教授だから研究環境は完璧なはずで、それ以外にこれだけ私蔵してたって、一体どんな本なんだろうね?」
☆梅本「さあ今日最後の人です。マルクス主義哲学者の古在由重さんで、2万8865冊です。これはもう3万に近いですね。」
★関谷「この人の岩波文庫の「ドイツイデオロギー」は名訳だったな。」
☆梅本「今回、2万クラスで紹介した蔵書家の方は計21名でした。」
2018年12月9日日曜日
[103] 現代日本の蔵書家たち1 一万クラスのひとたち
★漂流教室関谷「こんにちは。今日から、私たち二人が現代日本の蔵書家を紹介していきます。今日は所蔵数一万冊以上のクラスです。」
☆純クレ梅本 「ブログをご覧の皆様も、他にもこういう人がいてこれくらい本を持ってるんだけど、って情報がございましたら こちら へお知らせくださいね。すぐ管理人が追加しますから」
★関谷「で、一万越えの蔵書家なんだけど。誰がいる?」
☆梅本「まず作家の池波正太郎。それと澁澤龍彦。イラストレーターの赤瀬川源平。それと芸能界を代表する読書家と言われた児玉清さん。この人たちの蔵書がだいたい1万冊ぐらいです」
★関谷「寿司屋に厳しい時代劇作家と、女装癖のある幻想文学作家がちょうど同じぐらい本持ってたというのが面白いね。赤瀬川の方はイラストレーターというより・・・作家とか漫画家といった方が」
☆梅本「マルチな才能です。『櫻画報』は名作ですね」
★関谷「児玉清だけど、芸能人ではもっと本持ってる人がいたような・・・・・」
☆梅本「森繁」
★関谷「ああ、森繁」
☆梅本「森繁久弥さんは三万冊越えてるのでもう少し後でやります。あと松原隆一郎とかいう経済学者が1万冊です。おしゃれな書庫を新築されたそうですよ。」
★関谷「ほんとだ。『書庫を建てる』って本書いて自慢してる。すっきりまとまった良い書庫だな・・・」
☆梅本「長岡博男っていう民俗学者が1万冊。塚本勲っていう大阪外大の朝鮮語学者が1万439冊。こっちは朝鮮語文献がほとんどだそうです。二人共私の知らない人です」
★関谷「文庫に寄付の口だな」
☆梅本「ええ。中国史の倉石武四郎先生も漢籍4300、現代中国語2300、和書3300、洋書600の合わせて1万500冊を文庫に寄付です。それとあの桑原武夫さんも1万400冊でこれは・・・」
★関谷「文庫としてどっかに寄付したけど、捨てられた」
☆梅本「そう。捨てられましたね。捨てたのは京都市」
★関谷「桑原さん稀覯本の蒐集家ってタイプじゃないから軽く見られたかな? 倉石さんの方は日本語の本が全体の三分の一なのか。こういうのが学者の本棚なんだよね」
☆梅本「中国文学の小川環樹先生も1万1400冊を文庫に寄付されてるんですが、和書が1万1千と洋書が400冊で漢籍がないんです。ご専門だから無いって事はあり得ないので本来なら全部で3万越えてるかもしれません」
★関谷「このひと湯川秀樹の弟で、兄弟全員京大教授じゃなかったっけ?」
☆梅本「たしかご長男だけ東大教授だったと思います。他に早世した弟さんもいます」
★関谷「日本の近代政治史のドンだった岡義武教授が9007冊、と・・・ これ足りないんじゃないの?」
☆梅本「岡義武さんは明治関係の1700冊だけ別のとこへ寄付されてるんです。前回触れた吉野作造の明治文化研究の文庫と一緒にしておくためなんだって。この人吉野作造の弟子でその研究も引き継いでるんです」
★関谷「つまり合計して一万越えになるということか」
☆梅本「今日は紹介する人が多いのでどんどん進めちゃいます。中国学の神田喜一郎さん。京都国立博物館の館長もされてましたね。1万700冊です。英米法の高柳賢三が1万1428です。東京裁判の日本側弁護団の団長か副団長だったひとですね。評論家の林達夫も1万ぐらいでこれは明大へ寄付。宗教学者の堀一郎(1万1千)と民俗学者の平山敏治(1万4千)は成城大に寄付。政治学者の宮田光雄は職場の東北大学に1万4637冊を。」
★関谷「インド学の泰斗だった辻直四郎先生も東洋文庫へ寄付した分だけで1万2千か・・・ おなじ東洋学ではイスラム哲学の権威の井筒俊彦が1万3700冊だけど、井筒さんはイラン革命のときにあっちから貴重な文献を大量に持ち帰ってるんだよね。これも文庫として寄付だ」
☆梅本「そして、あの竹内理三さんが1万1500冊。戦後を代表する中世史家の一人です。」
★関谷「竹内さんの平安遺文とか鎌倉遺文のような史料集成の仕事は戦後の日本史学の金字塔ですからね。」
☆梅本「一方、小松芳喬先生は英国経済史関係の約1万2千を寄付してます。これ全部洋書なので全体なら2万ぐらい行くかもしれませんね。あと京大の末川博さんも1万2千を寄付です」
★関谷「民法の世界では東の我妻、西の末川と言われ並び称されてた人だな。」
☆梅本「名著『言論出版の自由』で知られる伊藤正己先生は2カ所への寄付分合わせて14510冊。」
★関谷「東京大学法学部長で日本学士院の会員、最高裁判事もやった人だな。」
☆梅本「プロレタリア文学を代表する作家の中野重治は1万3千冊を文庫に寄付です」
★関谷「酒の席で小林秀雄に泣かされた作家は大勢いるけど、その一人だな。」
☆梅本「それと白井鐵造も1万3000を寄付。」
★関谷「誰だそりゃ?」
☆梅本「宝塚の演出家です。私最近宝塚に凝ってるんですけどあのキラキラ舞台の基礎を作った人。レビューの王様と言われてました」
★関谷「そこまで知らないよ。ところで、同じ所持1万ってことで児玉清も辻直四郎もみんな一括りにしてるけど、翻訳ミステリのマニアとサンスクリット文献学の最高権威じゃ本棚の内容が全然違うよね。これはこのサイト全体に言えることだけど」
☆梅本「いいんじゃありません? もともとそういう企画なんだから。そもそもアマゾンアフィリを始めるにあたって、商品リンクしやすい形式のブログは何かってことで管理人はこのテーマにしたわけです。各人の本棚の内容だったらここを取っ掛かりに調べてくださいな。あくまでここはそういう初心者向けサイトですよ」
★関谷「しかし・・・」
☆梅本「どんどん進めていきます。今日は多いんです。小野崎正明さんが1万3600冊です」
★関谷「大道興業の副組長だな。ヤクザの親分でもそんな読書がいるのか」
☆梅本「それは同姓同名の別人です。東北弁護士会の会長の方です。」
★関谷「そんな地方の名士を出してきて、俺が知ってるわけないじゃないか!」
☆梅本「国文学者の川口久雄さんが1万7千です。内訳は和書漢籍が13000に学術誌4000」
★関谷「これも知らない・・・また地方の名士か?」
☆梅本「自分の知らない人を全部地方名士にしないでください。川口さんは金沢大学の教授で・・・」
★関谷「やっぱり地方名士じゃないか?」
☆梅本「業績は全国的にも知られてます。wikiにも載ってます」
★関谷「最近は誰でもwikiに載ってるよ。」
☆梅本「松本唯一さんが史料14938ですが、絵葉書や写真を除くと1万3千ぐらいですね。」
★関谷「これも知らない・・・ 地方名士か」
☆梅本「地方の名士なんでしょうね。九州の大学教授で火山学者だそうです。このコーナーは有名無名にかかわらずその数持ってる人は全部載せていくので我慢してくださいな。次は誰でも知ってる人です。作家の山本有三ですから。1万5千冊。」
★関谷「山本有三はもっと昔の人だと思ってたけど、1974年に死んでるから一応このコーナーでいいのか。13000を東京都に寄付して1700を近代文学館に寄付して、残りは陽明文庫に寄付・・・ なんで陽明文庫に?」
☆梅本「晩年近衛文麿の伝記書くために近衛家の資料集めてたそうです。だから近衛家の陽明文庫にって。山本有三は近衛文麿の親友だったそうですよ。さあグズグズせず紹介を続けていきます。もうちょっとで終わりですから。医学史の宗田一さんが13300冊寄付です。次に作家・・・というよりノンフィクション作家といった方がいいのかしら、杉森久英さんが本10487と雑誌3393で1万4千近くを寄付です。それと中国文学者の増田渉が1万5千を文庫に寄付。新日本汽船の会長だった松本一郎さんが1万6千冊を寄付です。内容は主に港湾海運貿易関係のものらしいです。」
★関谷「これで最後か」
☆梅本「最後は国語学の泰斗、山田孝雄先生です。1万8千冊。これもやはり寄付ですね」
★関谷「今日はいったい、何人紹介したんですか?」
★梅本「34人です。でも、みんな寄付ばかりですね。貴重なものも多いので遺族は売ればお金になるのに」
★関谷「コレクターは自分の作った宇宙を壊したくないんだろうね。」
☆梅本「でも桑原さんみたいに捨てられちゃうと・・・」
★関谷「そんな例は多いみたいだよ。高野山大学の教授だった藤森賢一って人も1万6千冊を市に寄付して、死後十年放置されてたって」
☆梅本「本なんて興味ない人にとっては迷惑以外の何物でもないですもんね」
[102] 現代日本の蔵書家たち0 プロローグ
★漂流教室関谷「ここからは対談形式です。私は漂流教室関谷。私に関して詳しく知りたい方は楳図かずおの『漂流教室』をご覧ください」
☆純クレ梅本 「私は梅本と申します。詳しくは松苗あけみの『純情クレイジーフルーツ』をお読みください」
★☆二人一緒に「私たち二人が、これから現代日本の蔵書家たちについて解説して行きます。
だいたい1970代以後の蔵書家を扱っています。それ以前の時代は こちら をご覧ください」
☆純クレ梅本 「ブログをご覧の皆様も、他にもこういう人がいてこれくらい本を持ってるんだけど、って情報がございましたら こちら へお知らせくださいね。有名無名にかかわらず、すぐ管理人が追加しますから」
★関谷「ところで、所蔵数1万冊以上の蔵書家だけ紹介するって、ハードル高すぎないかな?
世間的には2千冊、3千冊の人でも立派な蔵書家として通ってるよ。」
☆梅本「まあ、4LDKの家に子供二人いたら本棚10本ぐらいしか置けませんね。」
★関谷「日本人の持っている冊数の平均って、いったいどのくらいなの?」
☆梅本「76冊という結果が出てます。これは日本国内を都道府県別に調査してます。
また別のアンケートでは91冊という結果になってます。こっちは世界各国を比較した国際的な調査です。2つを見ると、まあ100冊には届かないぐらいじゃないでしょうか?」
★関谷「どの県の人が一番本持ってるのかな?」
☆梅本「宮城ですね。本も漫画も一位です。本は全国平均が76冊のところ、134冊持ってます。 漫画は全国平均が75冊のところ、236冊も持ってます。宮城、マンガ読みすぎですね」
★関谷「宮城県人の蔵書数は平均の二倍で、漫画では三倍ということだな。」
☆梅本「東北って、小中学生の学力も平均より高めでしょう?」
★関谷「じゃあ、今度は国際比較の方はどうなってる?」
☆梅本「こっちの調査では、日本の家庭の平均蔵書数は91冊になってるんですが・・・
他の国に比べると割と低めなんです。日本人は識字率が高く、平均IQも高いのに・・・
アメリカが119冊。イギリスが116冊。フランスが113冊です。」
★関谷「どこが多いの?」
☆梅本「世界一になったアイスランドの336冊というのはなんかちょっと多すぎなんですけど大体北欧の国は多いです」
★関谷「日本が少ないのは、本と同じぐらい漫画持ってるからじゃないか?」
☆梅本「かもしれません。91冊を倍にしたらドイツの134冊より上になりますから。大体ロシア(183冊)と同じぐらいですか。でも北欧の200冊越えには及びません」
★関谷「逆に少ないのは?」
☆梅本「フィリピンが22冊で、調べたうちでは最下位です・・・」
★関谷「ソマリアとか、ジンバブエならもっと少ないだろうな・・・」
☆梅本「中国も、今は少ないですね。平均44冊だから。」
★関谷「中国はずっと共産国家だったからだろ。でもあそこは記録民族だしこれから経済発展したら・・・」
☆梅本「かなり増えてくるでしょうね。
ところで、管理人が紹介する蔵書家を原則1万以上にしたのは、キリがいいのと、千レベルまで紹介してたらキリがないからです。こういうのはなにはともあれキリの問題です。『個人文庫事典』って本があって、これは図書館や大学に寄付した人の文庫ばかり載せてます。数百・数千冊クラスの人なら何百人もいるんですけど、それが1万冊を越える人になったら、一気に数十人に減っちゃう。1万冊って、おっしゃってた様に結構高いハードルなんです。そりゃそうですよね。家に40本も50本も本棚置いてる人はあんまりいませんから。それともうひとつ、第二次大戦当時に世界を動かしてた20世紀の大政治家って、だいたい1万越えぐらいなんです。チャーチルが1万冊。ルーズベルトが1万3千。ヒトラーが1万7千。スターリンが2万冊。世界を動かそうと思ったらこれぐらいの書斎にふんぞり返って本読んでなきゃダメって事です」
★関谷「別に世界動かすために本読んでるわけでもあるまいし」
☆梅本「だからこのプロローグでは、本番に入る前に、著名人で数千クラスの人も紹介することにしました。」
★関谷「石原慎太郎は逗子の別荘に3200冊あったらしいな。別荘でこれだけだから本宅を合わせたら」
☆梅本「1万越えるかもしれませんね」
★関谷「内藤陳なんかはどれぐらい? あの有名な写真ではかなり多そうだけど」
☆梅本「分かりません」
★関谷「生田耕作はどう? 稀覯本の収集家としてかなり知られてるぞ」
☆梅本「分かりません」
★関谷「針生一郎は蔵書目録が出版されてた筈だよな。どれくらいの冊数だ?」
☆梅本「数えてないので、分かりません」
★関谷「何聞いても分からない分からないって・・・・」、
☆梅本「分かる人からゆっくり解説していきますから先を急がないでください。まず夏目漱石が3068冊です! 」
★関谷「ふーん。漱石でそれぐらいなの? 「鏡像フーガ」で紹介した鴎外の六分の一じゃないか。」
☆梅本「まあ漱石は蔵書家ってタイプじゃないですし」
★関谷「というか、そもそも漱石は現代人じゃないだろ!」
☆梅本「ええ、「鏡像フーガ」では漱石みたいに一万に満たない人や稀覯本の収集家でもない人には全く触れてなかったので、このコーナーの最後でまとめておきますね。
じゃあ今はまず、新しい方から紹介していく事にします。ピース又吉さんが2000冊の所有です」
★関谷「いきなり小物きたな」
☆梅本「ちゃんとこの人の本を読んだんですか?」
★関谷「武富の漫画版を読んだ。又吉と武富の暑苦しさが交じり合ってついて行けなかった」
☆梅本「じゃあ次は大物にします。戦後最高の詩人の一人と言われた西脇順三郎先生です。ノーベル賞候補で慶応で詩学の講義もされてましたね。洋書1200冊と雑誌1000冊の計二千二百なんですけど」
★関谷「ドナルド・キーンに嫌われて途中から候補を下ろされた人だな。大物でも冊数は又吉と同じぐらいか」
☆梅本「これは文庫に寄付した分です。洋書しかないって事はあり得ないので実数はもっと上でしょう。西脇先生に限らず文庫に寄付した方は実際はもっと持ってる事を計算に入れてくださいな」
★関谷「確かにあんまり変な本は大学や図書館に寄贈できない」
☆梅本「次は映画評論家の飯島正先生です。3315冊を文庫に寄付されてます。これも洋書なので飯島先生の全蔵書じゃありません」
★関谷「この人は日本の映画評論家の中で一番まともな人だったよな」
☆梅本「あと、ジブリの鈴木敏夫が四千冊ぐらいだそうです。それと国際政治学者の高坂正堯さんが4108冊。イスラム史の佐藤次高さんがやっぱり四千冊。」
★関谷「文庫に寄付した人は、実際はもっとあるかもしれないってことだな」
☆梅本「ええ。で、西洋経済史の大塚久雄さんは6058冊を文庫に寄付してますね。」
★関谷「戦後リベラルの学者として丸山・大塚というふうに併称されてたけど、丸山真男の六分の一なんだね」
☆梅本「今回で一番興味深いのは書誌学者の寿岳文章さんです。洋書4615冊と和書2405冊の計七千冊を文庫に寄付です」
★関谷「こういう人は本のことを一番よく知ってるからな。冊数ではもっと上がいくらでもいるんだろうが、内容は選び抜かれてるだろう。」
☆梅本「ええ、蔵書目録を拝見したいですね。えっと、次は歴史小説家の海音寺潮五郎です。」
★関谷「歴史小説家としては司馬遼太郎と並び称されてた人だな。何冊?」
☆梅本「7193冊です。思ったより少ないですね」
★関谷「そりゃ普通の人に比べりゃ全然多いけど、歴史小説家は資料を大量に必要とするのにな。司馬なんかは蔵書六万だろ」
☆梅本「次、歴史学者の佐伯有清も8000冊を文庫に寄付してます」
★関谷「邪馬台国本って偉い学者がとんでもない内容の本を出してる事が多いけど、この人のは結構ちゃんとしてたっけ」
☆梅本「ここから先は、9千冊ぐらい文庫に寄付してる人たちなので皆さん実際には一万以上だと思います。まず東京大学の憲法講座に戦後君臨していた宮沢俊義さんの8965冊。内容は和書が5685冊で洋書が2819冊。雑誌が461冊。
★関谷「こういう人は研究室の蔵書とか大学図書館で必要なものは手に入るのにやっぱり家でも本棚何十本も並べてるんだな。」
☆梅本「首相経験者で一番の読書家と言われていた大平正芳ですが、これも文庫に9100冊残してます。」
★関谷「文芸評論家の山本健吉も9500冊だな。」
☆梅本「ええ 戦記物の児玉譲さんも9800冊。」
★関谷「詩人・文学史家の日夏耿之介は9940冊か。これなんかもう1万で紹介してもいいよね」
☆梅本「では最後に、明治から昭和の前期にかけての著名人でそこまですごい量でもなく稀覯本の収集家でもないので、鏡像フーガで紹介してなかった人たちに簡単に触れていきます。関谷さんペーパーをご覧になってますか。」
★関谷「吉田茂が800冊って・・・ 少なすぎないか。外交官出身の首相だろ? チャーチルとかルーズベルトに比べたら・・・」
☆梅本「うーん。外交史料館にある吉田茂の本棚がこれぐらいだそうです。ほんとはもっとあるかもですけど。あと和辻哲郎が5000冊、田辺元が図書雑誌含めて6000冊ですね」
★関谷「二人とも日本を代表する大哲学者だな。西田幾多郎はどのぐらい?」
☆梅本「また分かったら追加します。あと、劇作家の小山内薫も文庫に寄付したもので6000冊ですね。
★関谷「阪急電車の小林一三が7000冊か・・・ 骨董コレクターとして有名だけど本もかなり・・・」
☆梅本「宝塚歌劇の生みの親ですよねこの人。映画会社の社長やったり、阪急デパートとか不動産開発とかも」
★関谷「へー 石原莞爾が8000冊も持ってたの・・・」
☆梅本「軍人としてはかなり多いですよね」
★関谷「石原莞爾は軍事思想家というか、そっちの面で戦後は評価されてるからな。読書家だったんだろう」
☆梅本「吉野作造が 和書5223部(8032冊)、洋書554部です。これは例の明治文化研究の資料でしょうか?」
★関谷「吉野作造って大正デモクラシーのイメージが強すぎるから晩年の明治研究はみんなあんまり知らないよな。これが一番重要な学問的業績なのに」
☆梅本「では、次回からいよいよ蔵書一万越えの人に触れていきます」
[101] 現代日本の蔵書家たち 貴方の家には本棚がいくつありますか
「主題補正 鏡像フーガ」で、反町茂雄の記述の流れに乗りつつ、1970年頃までたどって来たので、それ以降現在までの日本の蔵書家たちの話をもう先にやっちゃいましょう。
前回までは稀覯本のコレクターが主でしたが、ここからは普通の新刊書などの雑本コレクターが中心になってきます。なので、これまでよりぐっと肩の力を抜いて適当にしゃべっていきます。
普通本棚には200冊本が入ると言われてます。薄い文庫本ならもっと入るだろうし、逆に「ハリソン内科」だのエスコフィエの「フランス料理」だのそういう分厚い本なら少ししか入らない。これは本棚の大きさにもよります。
ただ、仮に200で数えてみて、一万冊なら50本必要です。家に本棚が50本もある人はそうそういないだろうから、ここら辺からがいっぱしの堂々たる蔵書家だとひとまずおいてみます。
それでは、その一万前後の蔵書家たちの話から始めていきましょう。
だいたい本なんかたくさんあったっていいことなんかありはしません。
財界を代表する蔵書家とされた平岩外四は、ずっと東電の社宅に住んでて三万冊以上も集めたものだから、家の根板が傾きました。米澤嘉博の場合はたしかアパートだったので下の部屋の戸が開かなくなって大家さんに追い出されてます。
いわゆる「床が抜けた」エピソードは串田孫一にもありますが、やはり一番有名なのは井上ひさしでしょう。しばらく前から部屋でなにかギギギギという音が気になっていて「虫でもいるのかな」と思ってたら、ある日新しく買ってきた本を部屋にドサッと置いた瞬間、それで床が抜けた、という豪快な話ですね。
本が焼けたというエピソードも多く、まず戦災で焼けた人として植草甚一、北川冬彦、中島河太郎。以前の項で触れた林羅山も晩年になって蔵書が灰になって、おそらくそのショックでなくなってます。家康、秀忠、家光、家綱と四代にわたって侍講を務めてきてかなり高齢だったはずなので自在に巻物とか読めないはずなんですけど。
欧米で似たパターンはローマ史家のモムゼンで、四万冊の蔵書の多くを灰にしました。ベルリン大学総長、プロイセンアカデミー終身書記というアカデミズムの頂点にいる立場も羅山とよく似ています。しかし周囲の協力で再建してまた増やしてゆくんですが、再度火災にあいこともあろうに今度は自分にその火が燃え移って焼死してしまいました。モムゼンは古代史以外何も知らない人だったという評もあり、そうなると蔵書はほとんどその関係ばかりの筈で、それが四万冊となると世界に一冊しかないような珍籍も多かったのではと思われます。
じっさい蔵書と共に焼け死んだ人は日本にもいて、農民史の革新者だった古島敏雄教授がそうなんです。古島さんの問題提起は安良城盛昭に引き継がれて戦後の近世史を大きく変えるんですが、御本人は貴重な資料と共に灰になられました。その他、我が国最大のフィルムコレクターだった杉本五郎も失火で膨大な貸本漫画を失っているし、安田善次郎の巨大なコレクションの消失を頂点とした焼失の被害を語ってたらきりがありませんね。。
もうひとつ、本による大きな災難は、家族が嫌がることです。本来自分たちに向けられるべき関心が本に向かってるという認識があるので元々あまり面白く思っていないところへ、書斎・書庫から廊下へはみ出し、居間・食堂・玄関先・トイレにまで進出し、「お前の部屋にも置かせてくれ」ではこれは怒るのが当たり前ですね。コレクションの形成にかなりのお金を費やしたのに、没後、家族が「価値をゆっくり査定して時期を考慮して売ろうかな」とはならないで、「みんなまとめて持ってってくれ」となるのはそのためでしょう。
それではなぜ人は本を集めるのか? 以下で紹介してゆくのは、今度のはそんなに昔の人じゃなくてせいぜい1970頃には生きてた現代人ばかりです。その人生をみてゆけば何か答えがあるかもしれません。
前回までは稀覯本のコレクターが主でしたが、ここからは普通の新刊書などの雑本コレクターが中心になってきます。なので、これまでよりぐっと肩の力を抜いて適当にしゃべっていきます。
普通本棚には200冊本が入ると言われてます。薄い文庫本ならもっと入るだろうし、逆に「ハリソン内科」だのエスコフィエの「フランス料理」だのそういう分厚い本なら少ししか入らない。これは本棚の大きさにもよります。
ただ、仮に200で数えてみて、一万冊なら50本必要です。家に本棚が50本もある人はそうそういないだろうから、ここら辺からがいっぱしの堂々たる蔵書家だとひとまずおいてみます。
それでは、その一万前後の蔵書家たちの話から始めていきましょう。
だいたい本なんかたくさんあったっていいことなんかありはしません。
財界を代表する蔵書家とされた平岩外四は、ずっと東電の社宅に住んでて三万冊以上も集めたものだから、家の根板が傾きました。米澤嘉博の場合はたしかアパートだったので下の部屋の戸が開かなくなって大家さんに追い出されてます。
いわゆる「床が抜けた」エピソードは串田孫一にもありますが、やはり一番有名なのは井上ひさしでしょう。しばらく前から部屋でなにかギギギギという音が気になっていて「虫でもいるのかな」と思ってたら、ある日新しく買ってきた本を部屋にドサッと置いた瞬間、それで床が抜けた、という豪快な話ですね。
本が焼けたというエピソードも多く、まず戦災で焼けた人として植草甚一、北川冬彦、中島河太郎。以前の項で触れた林羅山も晩年になって蔵書が灰になって、おそらくそのショックでなくなってます。家康、秀忠、家光、家綱と四代にわたって侍講を務めてきてかなり高齢だったはずなので自在に巻物とか読めないはずなんですけど。
欧米で似たパターンはローマ史家のモムゼンで、四万冊の蔵書の多くを灰にしました。ベルリン大学総長、プロイセンアカデミー終身書記というアカデミズムの頂点にいる立場も羅山とよく似ています。しかし周囲の協力で再建してまた増やしてゆくんですが、再度火災にあいこともあろうに今度は自分にその火が燃え移って焼死してしまいました。モムゼンは古代史以外何も知らない人だったという評もあり、そうなると蔵書はほとんどその関係ばかりの筈で、それが四万冊となると世界に一冊しかないような珍籍も多かったのではと思われます。
じっさい蔵書と共に焼け死んだ人は日本にもいて、農民史の革新者だった古島敏雄教授がそうなんです。古島さんの問題提起は安良城盛昭に引き継がれて戦後の近世史を大きく変えるんですが、御本人は貴重な資料と共に灰になられました。その他、我が国最大のフィルムコレクターだった杉本五郎も失火で膨大な貸本漫画を失っているし、安田善次郎の巨大なコレクションの消失を頂点とした焼失の被害を語ってたらきりがありませんね。。
もうひとつ、本による大きな災難は、家族が嫌がることです。本来自分たちに向けられるべき関心が本に向かってるという認識があるので元々あまり面白く思っていないところへ、書斎・書庫から廊下へはみ出し、居間・食堂・玄関先・トイレにまで進出し、「お前の部屋にも置かせてくれ」ではこれは怒るのが当たり前ですね。コレクションの形成にかなりのお金を費やしたのに、没後、家族が「価値をゆっくり査定して時期を考慮して売ろうかな」とはならないで、「みんなまとめて持ってってくれ」となるのはそのためでしょう。
それではなぜ人は本を集めるのか? 以下で紹介してゆくのは、今度のはそんなに昔の人じゃなくてせいぜい1970頃には生きてた現代人ばかりです。その人生をみてゆけば何か答えがあるかもしれません。
2018年12月5日水曜日
総目次
総目次
◇はじめに
◇主題 反町茂雄によるテーマ
反町茂雄による主題1 反町茂雄による主題2 反町茂雄による主題3 反町茂雄による主題4
◇主題補正 鏡像フーガ
鏡像フーガ 蒐集のはじめ 大名たち 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める 明治大正期の蔵書家 外人たち 昭和期の蔵書家 すべては図書館の中へ
◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール
《欧州大陸の蔵書家たち》
◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー
《英国の蔵書家たち》
◇第三変奏 ブラウンシュヴァイク, ヴィッテルスバッハ
《ドイツ領邦諸侯の宮廷図書館》
◇第四変奏 瞿紹基、楊以増、丁兄弟、陸心源
《清末の四大蔵書家》
◇第五変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー
《20世紀アメリカの蔵書家たち》
◇第六変奏
《古代の蔵書家たち》
◇第七変奏
《中世の蔵書家たち》
◇第八変奏
《イスラムの蔵書家たち》
◇第九変奏 《現代日本の蔵書家たち》
あなたの家にはいくつ本棚がありますか プロローグ 一万クラスのひとたち 二万クラスのひとたち 三万クラスのひとたち 四万クラスのひとたち 五万クラスのひとたち 六万クラスのひとたち 七万クラスのひとたち 八万クラスひとたち 九万クラスのひとたち 十万越えのひとたち 十五万越えのひとたち 二十万越えのひとたち
◇第十変奏 《現代欧米の蔵書家たち》
プロローグ 一万クラス 二万クラス 三万クラス 以下続く
◇終曲 漫画の蔵書家たち
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
[12] 鏡像フーガ8 すべては図書館の中へ
① この主題補正の項を終えるにあたって、問題点を振り返って再論してみます。
MAEDA
3 大名たち の頁で大名蔵書(とくに前田尊経閣)の特質に触れたとき、これは個人の蒐集というよりも国家の事業であり、また方々から集められた異本の校正など、実質的には文化・学術事業に近いことを述べました。だから反町がやったように、前田を中山や和田と並べるのはおかしいのではと疑問も呈しました。
しかし、そういう実質云々の話ではなくて、所有という観点からみると、これはあくまで大名の所有以外の何物でもありません。
日本の封建制は非常に特殊です。例えば戦後GHQが農地改革を行ったとき、彼らは占領下のドイツで行ったプランをそのまま日本に当てはめました。これはプロイセンのユンカーを潰す事を目的としたプランだったわけですが、その単純な適用は当時のGHQの担当者が兵農分離以降の日本封建制の二重性を理解できていなかったことの現れでした。フランス革命で行われた領主権の廃止を目指しながら、それとは何か別のことをやってしまった。
日本の藩主というのは西欧における「領主」とは異なって、支配地域への徴税権はあるけれども、所有権はない極めて「政府的な」存在でした。つまり土地の所有者は藩主とはまた別にいたわけです。(だから日本最大の百姓と言われた山形の本間家は下人2000人を所有しその収入は藩主を上回っていた)
その半面で、藩自体は大名の「家」としての存在がすべてであり、最近の幕末ドラマでよくあるような、「拙者は土佐『藩士』でござる」というようなセリフは実際には殆ど聞かれず、「お点前はいずれの『ご家中』でござるか」「加賀の前田様の『家中の者』でござる」という風なやり取りが通常でした。政府自体が大名家そのものであり、そのシステム下にあるものすべてが大名の所有なわけです。
前田綱起の蒐集が、性質としては極めて政府事業に近く、法的な所属としてあくまで大名家の所有であるという点は、この二重性を反映していたように思えます。このことは前田尊経閣のみならず、幕府紅葉山文庫にもいえ、形式的には将軍の個人的ライブラリーではありながら、書物奉行のもとに運営され、その巨大な蔵書は幕府要人や学者に開かれていた公的色彩の強いものでした。
NAKAYAMA
中山正善の場合は、その逆になります。彼が大学時代から行っていた個人的な蒐集を、自身が設立した天理図書館が引き継ぐわけですが、中山自身は図書館の館長でもないし、また図書館の所有者でもない。しかし実質的な最高意思決定者として購入の選択に関与し続けました。
天理図書館はすでに1930年に設立されているので、それ以後の蒐集(つまり重要なもののほとんど)は中山個人による蒐集ではなく、会計上も税法上も天理図書館の蒐集になります(もっとも中山は学生時代から本の購入資金を教団の予算に掛け合っていたので、当初から厳密な意味での所有になっていたかは不明)。だからこの点からみると、中山を近代日本最大の書籍蒐集者とする見方はおかしいわけです。
またもう一つ言うと、中山&天理図書館の収集活動の最盛期は文庫を丸ごと買うとかそんな感じなので、これはどう見ても図書館の蒐集方法です。数ある文庫買収の中でも、とくに伊藤仁斎家の蔵書・古文書を丸ごと購入した話は有名ですね。
WADA
一方、和田維四郎の場合も問題が出てきます。和田について反町茂雄はこう述べています。
「古書の蒐集事業は主として自力によって賄われ、雲村文庫の富を形成しましたが、時には昵懇の岩崎久弥及び久原房之介の力を借りた様です」
これとは異なり、岩崎と久原が和田をチーフとして古書を蒐集させたように書いている文章は多いです。例えば「和田先生は ~中略~ 多年親交のあった岩崎久弥男爵と久原房之介氏に説いて自分の推薦する図書を購入せられんことを以てし、両家ともこれを快諾されて大正年代の初期から両家の蒐集事業が起こったのでした」(石田幹之助)。
おそらく実際の取引は多くは和田名義で行われたと思われるので、私はだいたいにおいて反町茂雄のほうが正しいと思うけれども、没後にコレクションが両家へ行くことは了承済みだったようで、その所有は極めて不安定です。たしか、近世初頭のイタリアの蔵書家ニッコロ・ニッコリとメディチ家の関係がこのパターンだったと思います。
② 一般人は本を蒐集するが財閥は蒐集者を蒐集する
□ 岩崎久弥 兄家 ( 東洋文庫 )
□ 岩崎小弥太 弟家 ( 静嘉堂文庫 )
ここで岩崎の名前が出てきましたが、通常、岩崎両家を最大の蔵書家とは言うことはありません。むしろ図書館のオーナーという位置づけです。しかし、その兄家の東洋文庫と、弟家の静嘉堂文庫は、有名文庫をどんどん購入しており、合わせれば質量ともに天理を揺るがしかねません。
特に兄家(久弥)は上記にあるように和田維四郎の残した蒐集の和本の部分を受け取り、これを別に購入したモリソン文庫に合わせて「鬼に金棒」と言われました。これらはのちに東洋文庫として財団法人化され岩崎の個人所有を離れることになりますが、現在でも三菱系です。(このモリソン文庫にかんしては 6 外人たち でさらに詳しく解説してます)
また弟家(小弥太)の静嘉堂文庫も、清末四大蔵書家の陸心源の蔵書の一部(4万2千巻)を購入してこれを基本蔵書に置き、さらに重野安繹を収集主任として、和書では青木信寅・鈴木真年・宮島藤吉・田中頼庸・山田以文・色川三中・高橋残夢、漢書では中村宇吉・宮島藤吉・楢原陳政・小越幸介・竹添光鴻・島田重礼の蔵書を購入して、とどめは中村正直・木内重四郎・松井簡治・大槻如電・諸橋轍次などの文庫も吸い込んで、米のJPモルガンのそれを思わせる威容を誇っています。(この中にはこれまで名前を挙げてきた蔵書家も4,5人混じっていますね)
中山正善の場合、天理図書館の収集活動が御本人の蒐集の延長上にあるので、世間からはすんなり同一とみなされるんですが、岩崎両家の場合は最初から「財閥が図書館を作った」みたいなイメージがあり、世間一般で言われる蔵書家とは別におくのが慣例です。
ところが、じつは岩崎両家もそれそれの先代(弥太郎と弥之助)は古書マニアで頻繁に神田古書街に足を運んでたことがあり、静嘉堂文庫も父の弥之助の蔵書をもとに,小弥太が自邸の一角に開館したものなんです。そうなると静嘉堂文庫や東洋文庫を所有していた岩崎両家をどう位置づけるのかという問題が出てきます。
たしかに両家の家長は収集の実務にはほとんどタッチしておらず、高度な知識を持つ専門家に任せていた。しかしそれは、反町をはじめとする書誌学者顔負けの取引業者や図書館長以下のスタッフの補佐を受けていた中山正善も同じことです。
反町が挙げた最も重要な蔵書家の前田、和田、安田、中山のうち、安田を除くとほかの三人は実際には蔵書家といえるのかという点で、このようにいろいろと問題が起こってくるわけです。
いずれにせよ、巨大すぎる蒐集は、その所有権者自体がファジーであるし、購入する書物を選択する当事者の権限もファジーだし、またその目的面でも自分のためのものなのか人のためのものなのかよくわからなくなってきます。
自分が知識を蓄え世界を広げるためなのか、世のため人のための文化事業なのか、次項でのべる「没後に文庫化ごと寄付」という「蒐集の墓場」が日本でとくに横行した理由も、蒐者が徐々に後者の視点に侵されてきがちな一般的傾向なしに理解することはできないと思います。
③ すべては図書館の中に
「西洋の古書店は懐が深い上に、たいていは地下書庫に目のくらむような珍本をたくさん所蔵している。神田の某洋古書店の店主によれば、そういう本屋は日本人に大事な本を売らないのだそうだ。
『日本に出すと、戻ってこなくなるんですね。公共機関などに死蔵されて、その点、ヨーロッパかアメリカで売れば、持ち主が死んだとき相当の確率で市場に出回ってくる。本屋はまたそれで商売になるわけです』」(荒俣宏「ブックライフ自由自在」)
日本の場合、戦前の理想主義的な社会奉仕の礼賛から戦後民主主義にかけて、「公共性」の過度の重視がインテリ層に浸透しており、もう一方で、自分の作りあげた宇宙を壊したくないというコレクター心理、その底に流れる密かなエゴイズムが潜在していて、皮肉な言い方をすれば、この相反する両者が「文庫ごと寄付」という一つの表現に結実したものと思われます。
貴重な古書が図書館に蔵されるということは、まず書物の保存という観点から好ましいし、学術的にも専門的研究者が利用しやすい点で公益性に富んでいるため、真向反対する人は出てこないんでしょうが、書をめぐって人々の欲望や執念が交錯していた時代がすっかり過去のものになってしまうと、何か物足りない気もします。
果たして、これが文化なのだろうかと。
【最後に】
④ 結局日本でだれが一番本を持っていたの?
この頁は、「主題補正」の締めくくりなんですが、妙に理屈っぽくなってしまいました。(考えに未整理の部分があるので、おいおい書き直しや修正をしていきます)
そこで最後に、わかりやすいテーマでこの頁を閉じましょう。「結局日本でだれが一番本を持っていたの?」
要は、これまで反町茂雄が挙げた人、ブログ側で追加した人などのうちで誰が最大の蔵書家だったのか、それを暫定的に決めちゃってこの項を閉じることにします。
まず、反町さんが質量ともに日本で特に重要な蔵書家としたのは以下の四人です。
■ 前田綱起
■ 安田善之助
■ 和田維四郎
■ 中山正善
そして上記四人に続くセカンドランクとして挙げられたのがこの四人。
■ 屋代弘賢
■ 浅野梅堂
■ フランク・ホーレー
■ 徳富蘇峰
これまでブログ側で追加した蔵書家のうちで、特に規模の大きな存在は次の通りです。
□ 徳川宗家(紅葉山文庫)3 大名たち
□ 林述斎(林家家塾) 3 大名たち
□ 小山田与清 4 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める
□ 狩野享吉 5 明治大正の蔵書家
□ 徳川頼倫 5 明治大正の蔵書家
□ 岩崎久弥・小弥太 8 すべては図書館の中に
□ 九条家 7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)
□ 近衛家 7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)
□ 大宅壮一 7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)
ブログではまだ取り上げてないけど、いずれ 現代の蔵書家 で取り上げる予定の、量的に最大規模のお二人
□ 井上ひさし 現代の蔵書家12 20万越えの人たち
□ 谷沢永一 現代の蔵書家12 20万越えの人たち
結論を先に言うと、それは皇室蔵書です。
それは近衛家や九条家よりも古く(平安初期に宮中書庫が最大の蔵書量を誇っていたことは述べました)、明治期には幕府紅葉山文庫もその中に流れ込み、それ以降も図書頭の管理の下に大きな購入予算を持っていて、その後継機関である宮内庁書陵部は45万もの資料を保有。。稀書・珍籍などの豊富さでもおそらく飛びぬけています。
これは個人蔵書の色彩は大名蔵書や公家蔵書以上に希薄だろうし、「それを言っちゃおしまいでしょう」とも言われるかもしれないんですが、とにかく「どれか一つ」と迫られれば皇室蔵書を挙げざるを得ないんです。
ただ、やっぱり当たり前っちゃ当たり前の話ですね。後でアンコールピースの骨董コレクター篇で詳しくやりますが、たとえば骨董蒐集家にも、本における中山正善や前田綱起みたいな名実ともに最高最大とみなされる存在があります。それは益田孝という三井財閥の大番頭で茶人としても有名な人です。ところがある皇室関係の展覧会のパンフレットで、この益田を最大の骨董蒐集家とする表現があるんですが、それにはちゃんと「皇室と三井家をのぞけば」という但し書きがついてるんですね。まあ「そういうこと」のようで、長く続く王室がある国ならどこでも事情は同じかもしれません。
そこで管理人権限で、ここでひとつ「蔵書家のベスト」を決めてみましょう。
私は司馬遼太郎だと思います。残った冊数は6万ほどですが、昭和期後半で最大のベストセラー作家としての豊富な財力を駆使して、司馬ははるかにそれ以上の稀書を買い込んでいます。それは新作に取り掛かると、その関連の本が古書街から一斉に消えるという伝説を生んだぐらいの勢いでした。それで資料に使用した後はそれを売り払う。よって、文庫化&死蔵の道をたどらず、古書業界に還流してゆき、業界を枯渇させることはない。売る時と引き取る時で、古書店は2度儲かる。松本清張も同じパターンなんですが、古い資料を要する歴史小説の場合、求める本の金額の桁が違う。
そしで専業の作家・著述家であるから、そこから吸収した知識はすべて著作として読者へと還元されることになる。紅野敏郎のように物凄い量の蔵書を持つ著述家であっても、一般の方がほとんど読んでないケースもありますが、司馬の場合は逆に、「これほど日本で読まれた作家もいない」。
霞が関の官僚がもっとも読んだ作家と言われ、全国津々浦々の読書人に長年親しまれてきたこのひとほど、本というメディアに寄与した存在はないのではないか、と私は考えています。
このブログは今、ネット接続がなく手持ちの書籍も参照できないところで書いていて、事実関係や引用部分を確かめられない事があり、誤りや思い違いも多いと思います。随時指摘していただければありがたいです。 こちら
[11] 鏡像フーガ7 昭和期の蔵書家 (1970年頃まで)
昭和22年1月に行われた九条家のオークションはこの時代を象徴する出来事です。
前前頁で説明したように、終戦後、日本の古書の価格が低落します。理由は、華族が没落して千年に渡り蓄積されたそのコレクションが市場に放出された事にあります。逆にそれが我が国の古書籍取引史上の黄金期をもたらすわけです。
九条家は昭和4年にも国文学関係の写本を中心の売立会があり、それには徳富蘇峰、佐々木信綱、金子元臣、高木利太、池田亀艦など多くのコレクターが群がり、当時の古書業界としては一時代を画するものでした。その時、反町茂雄がある宮内省の専門家から「あれはいわば不要の分を整理されたにすぎない」と聞き、驚いたという話があります。そして二十年後、財政的に危機に陥った九条家のオークションで反町は仰天することになります。
「あのお家には、まだコンナにも沢山あったのか、と。すぐにあの宮内省の人の言を思い出しました。さてその内容を検して二度ビックリ。疑問は氷解しました。国文・国史を中心にした古写本を主とする点は同一。量もさる事ながら、これは質が立ちまさって居る。時代も一段二段古い。あの時は、せいぜい古くて足利初期どまり、大部分は慶長を中心にした前後一世紀間のもの。この度のは平安朝のものさえあり、鎌倉時代の古写本はかなり多く、南北朝・足利時代のものは数えきれないほど。中には九条家の代々をはじめ、室町期の名家の自筆の貴重書も多い。この種としては、疑いもなく業界はじまって以来の名品売立会であります。」(「九条侯爵家最秘の重宝」より)
ここで反町が全資力を傾けて仕入れた品々は省略しますが、さらに一年後、宮内庁関係者からの電話で九条家が国立博物館に預けている国宝十点を売りたいと言われ、これを中山正善に仲介することになります。繰り返しになりますが、このくだりはこの時代の古書取引を象徴する出来事でした。当時のお金で350万という金額を用意できたのが、中山正善のような新興宗教のトップぐらいしかいなかったからです。
この嵐のような時代は、くどくど語るのはやめてもうこのエピソード一つだけの紹介にとどめます。(国宝十点も省略します。詳しくは反町さんの著書にあたってください)
さて、反町さんは中山正善、F・ホーレー、小汀利得、岡田真の四人をこの時期の四強としています。(ホーレーに関しては前頁で触れたの省きます)
またその他に、池田亀鑑、吉田幸一、前田善子、梅沢彦太郎、戸川浜男、横山重、岡田利兵衛などの名前も挙げていました。
■ 中山正善
「お前様はお父様と同じようにたぶん読めない本をたくさん買うだろうよ」という幼少時に叔母から言われた言葉がそのまま実現してしまった天理教教主。
■ 小汀利得
日経新聞社長。経済評論家。七十年代前半に行われた没後の収集品のオークションは、主催した反町によれば日本の古書取引市場の最後の輝き。
■ 岡田真
大阪の実業家でアララギ派の歌人。他ではあまり語られることのない名前だが、反町のこの評価は昭和三十年のそのコレクションの売立会の内容を反映してのものだろう。
次に反町さんの専門である国文関係におけるこの時期のコレクターを七人。
■ 池田亀鑑 東京大学教授。源氏物語の最高権威。「私は自分に買えないものは人に買ってもらって、それを借りる」とかいってたそうだが、その犠牲者となったのが前前頁で紹介した大島雅太郎。それと後述の前田善子。
■ 吉田幸一 国文学者、書誌学者。叢書「古典文庫」発行のため、膨大な古書蒐集を行う。やはり反町の顧客で、一度戦災で蔵書を失っている。
■ 前田善子 国文学者。池田亀鑑門下で蔵書は紅梅文庫として名高い。蔵書家はほとんど男性ばかりだが、この人は珍しく女性。
■ 梅沢彦太郎 日本医事新報社社長。美術にも造詣が深くその方面での編著がある。
■ 戸川浜男 実業家。中世の物語などを収集
■ 横山重 国文学者。著書「古書探索」はよく知られている
■ 岡田利兵衛 実業家で国文学者。今の人には岡田節人の父と言う方がわかりやすいか。著名な俳人の直筆資料約6000点、「奥の細道」を含む俳書・俳画等を約5000点所蔵し、東大図書館洒竹・竹冷文庫、天理図書館綿屋文庫とともに三大俳諧コレクションとされている。
高度成長とともに稀書の価格も上がり、逆に、亡くなった所有者のコレクションは多くが大学や図書館の文庫に入るようになったため、重要なものが市場にも出回らなくなり徐々にこの時代が終わってゆきます。また1970年前後には中山、小汀などが相次いで世を去ります。稀覯本収集家はその後も後を絶たないものの、スケール感においてこの時期に匹敵する人は以後出てきませんでした。
《トピック1 公家の蔵書》
大名蔵書については 3 大名たち で触れましたが、公家蔵書については、2 蒐集のはじめ で主に蒐集家個人として取り上げはしたものの、何百年もかけて代々蓄積されてきた公家蔵書の実質をこれでは紹介したことになりません。で、九条家を上回る最大の公家蔵書とされた近衛家のそれについて、ここで簡単に触れておきます。
□ 近衛文麿 陽明文庫
五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の筆頭で、天皇家を別にすれば日本最高の名家といってよい近衛家は、伝来してきた典籍・古文書においても九条家と共に、公家が所蔵してきたもののうちで最重要のコレクションだった。
九条家をはじめとする他の公卿家のものが戦後不幸にして散逸したのに対して、近衛家の場合、文麿の英断ですでに1938年に陽明文庫として文庫化されており、今日でもまとまったかたちで保存されている。ただし一般公開はされていない。
古文書・典籍など10万点。昭和前期で最大の稀覯本の所有者は、じつはこれらの先祖伝来の典籍を継承していた文庫化前の近衛文麿であったかもしれない。(ただし蒐集者ではない)
と、一瞬思ってしまったが、実は篤麿の時代に京大に2万冊を寄付しており、陽明文庫設立時にそれを返還してもらって、あらためて近衛家の典籍・古文書類を全部ひとまとめにしたそうである。なので「□ 近衛文麿 陽明文庫」は「□ 近衛篤麿」へ訂正。
□ 九条道実・道秀
父九条道実公の時、昭和四年のオークションで一部を処分。子道秀の時,昭和22年の大処分に至る。
《トピック2 稀覯本以外のコレクター》
1970年頃までの昭和期の蔵書家では、稀覯本専門の古書籍商だった反町さんは稀覯本コレクターに特化した記述をしているので、このブログではもう少し幅広く紹介していきましょう。
□ 柳田国男 3万7千
□ 三浦新七 4万
□ 高橋亀吉 2万
□ 上野精一 3万
□ 有沢広巳 2万
□ 大佛次郎 5万7千
□ 江戸川乱歩 2万
□ 松本清張 3万
この時期の主な文化人(学者・作家など)をみていくと、
柳田は雑誌・資料などを合わせた数ですが、これは成城大学に寄付されたものだけです(目録が刊行『柳田文庫蔵書目録』昭和42年、『増補改訂 柳田文庫蔵書目録』平成15年)。他に帝国農会や慶応義塾大学言語文化研究所にも寄付しているので全貌はわかりません。
三浦新七は経済史家で、両羽銀行頭取、東京商科大学長などを歴任しました。門下からは上原専禄、増田四郎など有為の人物を多く輩出。
昭和前期を代表する経済評論家の高橋亀吉は、仲の良かった小汀利得が稀覯本のコレクターとして鳴らしたのとは違ってこれは専門分野中心の収集でしょうか? 単行本・資料を合わせた数字ですが、一、二の財閥関係者の援助もあったそうです。
上野精一というのは、一般の方はあまりご存じないかもしれませんが、朝日新聞を所有する村山&上野一族の人です。
有沢広巳は労農派の経済学者で高度成長期のイデオローグ。この蔵書は珍しく中国科学院に寄付されました。
大佛次郎もさすが文壇を代表する文化人として、かなり大きなコレクションですね。「天皇の世紀」の頃には、朝日新聞が資料収集を援助していました。
日本における本格推理小説の祖といえる江戸川乱歩が2万なら、変格推理の代表格である松本清張も3万。乱歩の収集には幻想小説などが目立ちます。ちなみに乱歩は本を捨てずに蓄えるタイプ。逆に清張は資料として使った後はどんどん捨てていくタイプ。それで書庫に3万残ったんだからすごいですね。
□ 大宅壮一
さて、1970年ごろまでの昭和期の著名人で最大の収集家はおそらく大宅壮一ではないかと思います。
大半が雑誌ですが、総数は20万に及びました(しかし本だけでも7万冊もあります)。これは明らかにジャーナリストとしての情報環境を整えるタイプの収集であり、数だけ見ると戦前の徳富蘇峰の収集のほぼ倍です。蘇峰には稀覯本コレクターとしての顔もあり、コレクションとしてはそっちのほうが高く評価されるんでしょうが、大宅壮一の場合、彼が書いたものを読んでてもそういう匂いはほとんどしませんね。よって、反町さんは完全に無視ですが、中山正善を頂点とする近代日本の稀覯本コレクターたちとは一線を画すもう一方の雄としてこういう存在があったということなんでしょう。
死後は雑誌図書館の 大宅壮一文庫 となり、多くのジャーナリストを裨益してきました。大宅の晩年は書庫の中をあっちで調べてこっちに移り、こっちで調べてまたあっちに移るという、なんだか調べる事だけに費やしたように伝わっています。現在のように検索システムが整備されてると、そういう事に費やす時間がほとんど省略されるので便利な時代になったもんです。
現代の蔵書家たち からは、ここからあとの時期の日本の蔵書家たちを扱っているので、よろしくおねがいします。
前前頁で説明したように、終戦後、日本の古書の価格が低落します。理由は、華族が没落して千年に渡り蓄積されたそのコレクションが市場に放出された事にあります。逆にそれが我が国の古書籍取引史上の黄金期をもたらすわけです。
九条家は昭和4年にも国文学関係の写本を中心の売立会があり、それには徳富蘇峰、佐々木信綱、金子元臣、高木利太、池田亀艦など多くのコレクターが群がり、当時の古書業界としては一時代を画するものでした。その時、反町茂雄がある宮内省の専門家から「あれはいわば不要の分を整理されたにすぎない」と聞き、驚いたという話があります。そして二十年後、財政的に危機に陥った九条家のオークションで反町は仰天することになります。
「あのお家には、まだコンナにも沢山あったのか、と。すぐにあの宮内省の人の言を思い出しました。さてその内容を検して二度ビックリ。疑問は氷解しました。国文・国史を中心にした古写本を主とする点は同一。量もさる事ながら、これは質が立ちまさって居る。時代も一段二段古い。あの時は、せいぜい古くて足利初期どまり、大部分は慶長を中心にした前後一世紀間のもの。この度のは平安朝のものさえあり、鎌倉時代の古写本はかなり多く、南北朝・足利時代のものは数えきれないほど。中には九条家の代々をはじめ、室町期の名家の自筆の貴重書も多い。この種としては、疑いもなく業界はじまって以来の名品売立会であります。」(「九条侯爵家最秘の重宝」より)
ここで反町が全資力を傾けて仕入れた品々は省略しますが、さらに一年後、宮内庁関係者からの電話で九条家が国立博物館に預けている国宝十点を売りたいと言われ、これを中山正善に仲介することになります。繰り返しになりますが、このくだりはこの時代の古書取引を象徴する出来事でした。当時のお金で350万という金額を用意できたのが、中山正善のような新興宗教のトップぐらいしかいなかったからです。
この嵐のような時代は、くどくど語るのはやめてもうこのエピソード一つだけの紹介にとどめます。(国宝十点も省略します。詳しくは反町さんの著書にあたってください)
さて、反町さんは中山正善、F・ホーレー、小汀利得、岡田真の四人をこの時期の四強としています。(ホーレーに関しては前頁で触れたの省きます)
またその他に、池田亀鑑、吉田幸一、前田善子、梅沢彦太郎、戸川浜男、横山重、岡田利兵衛などの名前も挙げていました。
■ 中山正善
「お前様はお父様と同じようにたぶん読めない本をたくさん買うだろうよ」という幼少時に叔母から言われた言葉がそのまま実現してしまった天理教教主。
■ 小汀利得
日経新聞社長。経済評論家。七十年代前半に行われた没後の収集品のオークションは、主催した反町によれば日本の古書取引市場の最後の輝き。
■ 岡田真
大阪の実業家でアララギ派の歌人。他ではあまり語られることのない名前だが、反町のこの評価は昭和三十年のそのコレクションの売立会の内容を反映してのものだろう。
次に反町さんの専門である国文関係におけるこの時期のコレクターを七人。
■ 池田亀鑑 東京大学教授。源氏物語の最高権威。「私は自分に買えないものは人に買ってもらって、それを借りる」とかいってたそうだが、その犠牲者となったのが前前頁で紹介した大島雅太郎。それと後述の前田善子。
■ 吉田幸一 国文学者、書誌学者。叢書「古典文庫」発行のため、膨大な古書蒐集を行う。やはり反町の顧客で、一度戦災で蔵書を失っている。
■ 前田善子 国文学者。池田亀鑑門下で蔵書は紅梅文庫として名高い。蔵書家はほとんど男性ばかりだが、この人は珍しく女性。
■ 梅沢彦太郎 日本医事新報社社長。美術にも造詣が深くその方面での編著がある。
■ 戸川浜男 実業家。中世の物語などを収集
■ 横山重 国文学者。著書「古書探索」はよく知られている
■ 岡田利兵衛 実業家で国文学者。今の人には岡田節人の父と言う方がわかりやすいか。著名な俳人の直筆資料約6000点、「奥の細道」を含む俳書・俳画等を約5000点所蔵し、東大図書館洒竹・竹冷文庫、天理図書館綿屋文庫とともに三大俳諧コレクションとされている。
高度成長とともに稀書の価格も上がり、逆に、亡くなった所有者のコレクションは多くが大学や図書館の文庫に入るようになったため、重要なものが市場にも出回らなくなり徐々にこの時代が終わってゆきます。また1970年前後には中山、小汀などが相次いで世を去ります。稀覯本収集家はその後も後を絶たないものの、スケール感においてこの時期に匹敵する人は以後出てきませんでした。
《トピック1 公家の蔵書》
大名蔵書については 3 大名たち で触れましたが、公家蔵書については、2 蒐集のはじめ で主に蒐集家個人として取り上げはしたものの、何百年もかけて代々蓄積されてきた公家蔵書の実質をこれでは紹介したことになりません。で、九条家を上回る最大の公家蔵書とされた近衛家のそれについて、ここで簡単に触れておきます。
□ 近衛文麿 陽明文庫
五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の筆頭で、天皇家を別にすれば日本最高の名家といってよい近衛家は、伝来してきた典籍・古文書においても九条家と共に、公家が所蔵してきたもののうちで最重要のコレクションだった。
九条家をはじめとする他の公卿家のものが戦後不幸にして散逸したのに対して、近衛家の場合、文麿の英断ですでに1938年に陽明文庫として文庫化されており、今日でもまとまったかたちで保存されている。ただし一般公開はされていない。
古文書・典籍など10万点。昭和前期で最大の稀覯本の所有者は、じつはこれらの先祖伝来の典籍を継承していた文庫化前の近衛文麿であったかもしれない。(ただし蒐集者ではない)
と、一瞬思ってしまったが、実は篤麿の時代に京大に2万冊を寄付しており、陽明文庫設立時にそれを返還してもらって、あらためて近衛家の典籍・古文書類を全部ひとまとめにしたそうである。なので「□ 近衛文麿 陽明文庫」は「□ 近衛篤麿」へ訂正。
□ 九条道実・道秀
父九条道実公の時、昭和四年のオークションで一部を処分。子道秀の時,昭和22年の大処分に至る。
《トピック2 稀覯本以外のコレクター》
1970年頃までの昭和期の蔵書家では、稀覯本専門の古書籍商だった反町さんは稀覯本コレクターに特化した記述をしているので、このブログではもう少し幅広く紹介していきましょう。
□ 柳田国男 3万7千
□ 三浦新七 4万
□ 高橋亀吉 2万
□ 上野精一 3万
□ 有沢広巳 2万
□ 大佛次郎 5万7千
□ 江戸川乱歩 2万
□ 松本清張 3万
この時期の主な文化人(学者・作家など)をみていくと、
柳田は雑誌・資料などを合わせた数ですが、これは成城大学に寄付されたものだけです(目録が刊行『柳田文庫蔵書目録』昭和42年、『増補改訂 柳田文庫蔵書目録』平成15年)。他に帝国農会や慶応義塾大学言語文化研究所にも寄付しているので全貌はわかりません。
三浦新七は経済史家で、両羽銀行頭取、東京商科大学長などを歴任しました。門下からは上原専禄、増田四郎など有為の人物を多く輩出。
昭和前期を代表する経済評論家の高橋亀吉は、仲の良かった小汀利得が稀覯本のコレクターとして鳴らしたのとは違ってこれは専門分野中心の収集でしょうか? 単行本・資料を合わせた数字ですが、一、二の財閥関係者の援助もあったそうです。
上野精一というのは、一般の方はあまりご存じないかもしれませんが、朝日新聞を所有する村山&上野一族の人です。
有沢広巳は労農派の経済学者で高度成長期のイデオローグ。この蔵書は珍しく中国科学院に寄付されました。
大佛次郎もさすが文壇を代表する文化人として、かなり大きなコレクションですね。「天皇の世紀」の頃には、朝日新聞が資料収集を援助していました。
日本における本格推理小説の祖といえる江戸川乱歩が2万なら、変格推理の代表格である松本清張も3万。乱歩の収集には幻想小説などが目立ちます。ちなみに乱歩は本を捨てずに蓄えるタイプ。逆に清張は資料として使った後はどんどん捨てていくタイプ。それで書庫に3万残ったんだからすごいですね。
□ 大宅壮一
さて、1970年ごろまでの昭和期の著名人で最大の収集家はおそらく大宅壮一ではないかと思います。
大半が雑誌ですが、総数は20万に及びました(しかし本だけでも7万冊もあります)。これは明らかにジャーナリストとしての情報環境を整えるタイプの収集であり、数だけ見ると戦前の徳富蘇峰の収集のほぼ倍です。蘇峰には稀覯本コレクターとしての顔もあり、コレクションとしてはそっちのほうが高く評価されるんでしょうが、大宅壮一の場合、彼が書いたものを読んでてもそういう匂いはほとんどしませんね。よって、反町さんは完全に無視ですが、中山正善を頂点とする近代日本の稀覯本コレクターたちとは一線を画すもう一方の雄としてこういう存在があったということなんでしょう。
死後は雑誌図書館の 大宅壮一文庫 となり、多くのジャーナリストを裨益してきました。大宅の晩年は書庫の中をあっちで調べてこっちに移り、こっちで調べてまたあっちに移るという、なんだか調べる事だけに費やしたように伝わっています。現在のように検索システムが整備されてると、そういう事に費やす時間がほとんど省略されるので便利な時代になったもんです。
現代の蔵書家たち からは、ここからあとの時期の日本の蔵書家たちを扱っているので、よろしくおねがいします。
[10] 鏡像フーガ6 外人たち
「外人ではE・サトー、B・チェンバレン、F・ホーレーは、それぞれに立派な蒐集家で、質に於いても優れて居ります」という引用の通り、初期の日本研究者が膨大な文献を集めていたことは従来からよく知られていました。中国においても、外人が現地で巨大なコレクションを形成していた例としてジョージ・モリソンという大きな存在があります。
アーネスト・サトウとバジル・チェンバレンは前頁の5 明治大正期の蔵書家 と同時期にあたり、フランク・ホーレーは次頁の7 昭和の蔵書家 の同時期にあたりますが、この頁に一緒にまとめることにします。またジョージ・アーネスト・モリソンも、この人はアメリカ人で、中国国内で蒐集活動を行った人ですが、後に述べる理由でここに一緒に記載します。
さて、反町さんが挙げた外人の日本文献蒐集家は以下の三人です。
■ アーネスト・サトウ
駐日公使を務めたイギリスの外交官で、明治期を代表する日本専門家。四半世紀を日本で過ごし、「一外交官の見た明治維新」「日記」など、わが国で親しまれている著書もある。
日本で買い集めた蔵書は4万冊に上り、珍本稀書も多かった。コレクションの形成された時期は、大名蔵書が崩壊して古書価格が崩落した日本の古書史上での第一期の黄金期にあたる。晩年は枢密顧問官に任ぜられ、中産階級出身者としては異例の出世を遂げている。
■ バジル・ホール・チェンバレン
お雇い外国人として来日し東京大学で教師(事実上の教授だが外国人にその呼称は許されなかった)を務め、滞日はおよそ40年に及んだ。この時期では前記サトウと並ぶ日本研究者とされる。蔵書印は英王堂。サトウの蔵書はケンブリッジや大英図書館に寄贈されたが、チェンバレンは門弟の上田万年・佐々木信綱・杉浦藤四郎などにかなりの部分を譲って帰国した。
この章は一番問題のあるページなので工事中です
以下はトルソ。
■ フランク・ホーレー
前に図書館で借りた本からの抜き書き 「書物に魅せられた英国人」より
ホーレーはリバプール大、ケンブリッジ大、パリ大、ベルリン大などで学び、パリ大ではペリオの門下。
戦前は蝦夷、アイヌ、沖縄、朝鮮の古辞書・古活字本が多く、戦後は重要文化財に匹敵する稀覯本のコレクター。
ロンドン大で満州語の教師。 千葉勉外大教授が訪英し、ホーレーを東京外大の講師に、他に理科大や京都三高でも教える。
1939年、英から情報局のレッドマンが来日し英国文化研究所を設立し、ホーレーが長になる。イギリス大使館情報委員会の委員。
これに対して朝日など日本メディアはスパイだと報道。1941年にホーレー夫妻は逮捕。国家総動員法を犯したという理由。
蔵書は没収され慶応大学に売却。返還されたときは2割が欠本でホーレーの蔵書リストには「慶応大学にまた奪われた」と書き込んでる。
帰英してタイムズに入社。元駐日英大使クレーギー、ピゴット将軍、レッドマンなどの推薦。
イギリスではBBCの日本語放送顧問や英国戦時外務省情報担当を務める
再来日後、ホーレーはマッカーサー批判で追放されそうになる。
戦前のホーレーも、冊数は1万7500冊に及び、普通の民家を借りてたものだから家じゅう本棚であふれたっていわれているので、かなりの蔵書家といえます。しかし、戦後すぐの収集活動は、中山正善を向こうに回す程のさらに大規模なものでした。前記サトウやチェンバレンが大量に買い集めた時期は日本の古書史上における第一期の黄金期にあたるんですが、ホーレーのこの収集活動は、戦後に公家蔵書が崩壊した第二の黄金期が中心です。
前期のコレクションと後期のコレクションに非連続的な隔たりがあり、内容が大きく違っているのは、たとえば安田善之助がそうでした。安田の場合は関東大震災で前半の書物を失ってその後、一からまた集めはじめたわけで、江戸文学中心の艶やかな印象の前半に対し、古写経に向かっていった後半はかなり渋いです。
ホーレーも、前半の蒐集は戦前にスパイ容疑で逮捕された際没収され(戦後返還されます)、再来日後に新たに集め始めました。戦前のは、いかにも日本研究者といった感じですが、後半は日本の大物蒐集家に交じってというか、(中山正善を例外として)それらすべての上に立ってというか、どこから資金が出たのか訝しげに感じるくらい稀覯本なら何でもこいの巨大なコレクションを形成します。
これは単に趣味嗜好の変化というよりも、集める目的に変化があったのではないかという気がします。ホーレーが変わってるのは、十何年か保持して、すぐに売りさばいてることです。反町によると、買う時に金に糸目をつけなかった反面、売る時もかなり高い価格でないと渋っていたとの事。
アーネスト・サトウとバジル・チェンバレンは前頁の5 明治大正期の蔵書家 と同時期にあたり、フランク・ホーレーは次頁の7 昭和の蔵書家 の同時期にあたりますが、この頁に一緒にまとめることにします。またジョージ・アーネスト・モリソンも、この人はアメリカ人で、中国国内で蒐集活動を行った人ですが、後に述べる理由でここに一緒に記載します。
さて、反町さんが挙げた外人の日本文献蒐集家は以下の三人です。
■ アーネスト・サトウ
駐日公使を務めたイギリスの外交官で、明治期を代表する日本専門家。四半世紀を日本で過ごし、「一外交官の見た明治維新」「日記」など、わが国で親しまれている著書もある。
日本で買い集めた蔵書は4万冊に上り、珍本稀書も多かった。コレクションの形成された時期は、大名蔵書が崩壊して古書価格が崩落した日本の古書史上での第一期の黄金期にあたる。晩年は枢密顧問官に任ぜられ、中産階級出身者としては異例の出世を遂げている。
■ バジル・ホール・チェンバレン
お雇い外国人として来日し東京大学で教師(事実上の教授だが外国人にその呼称は許されなかった)を務め、滞日はおよそ40年に及んだ。この時期では前記サトウと並ぶ日本研究者とされる。蔵書印は英王堂。サトウの蔵書はケンブリッジや大英図書館に寄贈されたが、チェンバレンは門弟の上田万年・佐々木信綱・杉浦藤四郎などにかなりの部分を譲って帰国した。
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以下はトルソ。
■ フランク・ホーレー
前に図書館で借りた本からの抜き書き 「書物に魅せられた英国人」より
ホーレーはリバプール大、ケンブリッジ大、パリ大、ベルリン大などで学び、パリ大ではペリオの門下。
戦前は蝦夷、アイヌ、沖縄、朝鮮の古辞書・古活字本が多く、戦後は重要文化財に匹敵する稀覯本のコレクター。
ロンドン大で満州語の教師。 千葉勉外大教授が訪英し、ホーレーを東京外大の講師に、他に理科大や京都三高でも教える。
1939年、英から情報局のレッドマンが来日し英国文化研究所を設立し、ホーレーが長になる。イギリス大使館情報委員会の委員。
これに対して朝日など日本メディアはスパイだと報道。1941年にホーレー夫妻は逮捕。国家総動員法を犯したという理由。
蔵書は没収され慶応大学に売却。返還されたときは2割が欠本でホーレーの蔵書リストには「慶応大学にまた奪われた」と書き込んでる。
帰英してタイムズに入社。元駐日英大使クレーギー、ピゴット将軍、レッドマンなどの推薦。
イギリスではBBCの日本語放送顧問や英国戦時外務省情報担当を務める
再来日後、ホーレーはマッカーサー批判で追放されそうになる。
戦前のホーレーも、冊数は1万7500冊に及び、普通の民家を借りてたものだから家じゅう本棚であふれたっていわれているので、かなりの蔵書家といえます。しかし、戦後すぐの収集活動は、中山正善を向こうに回す程のさらに大規模なものでした。前記サトウやチェンバレンが大量に買い集めた時期は日本の古書史上における第一期の黄金期にあたるんですが、ホーレーのこの収集活動は、戦後に公家蔵書が崩壊した第二の黄金期が中心です。
前期のコレクションと後期のコレクションに非連続的な隔たりがあり、内容が大きく違っているのは、たとえば安田善之助がそうでした。安田の場合は関東大震災で前半の書物を失ってその後、一からまた集めはじめたわけで、江戸文学中心の艶やかな印象の前半に対し、古写経に向かっていった後半はかなり渋いです。
ホーレーも、前半の蒐集は戦前にスパイ容疑で逮捕された際没収され(戦後返還されます)、再来日後に新たに集め始めました。戦前のは、いかにも日本研究者といった感じですが、後半は日本の大物蒐集家に交じってというか、(中山正善を例外として)それらすべての上に立ってというか、どこから資金が出たのか訝しげに感じるくらい稀覯本なら何でもこいの巨大なコレクションを形成します。
これは単に趣味嗜好の変化というよりも、集める目的に変化があったのではないかという気がします。ホーレーが変わってるのは、十何年か保持して、すぐに売りさばいてることです。反町によると、買う時に金に糸目をつけなかった反面、売る時もかなり高い価格でないと渋っていたとの事。
[9] 鏡像フーガ5 明治大正期の蔵書家
以下引用
「明治以後には、善本の蒐集家の数は一段と増加致します。青木信寅・黒川家三代・竹添井々・田中光顕・井上頼圀・田中勘兵衛・神田香厳・富岡鉄斎・平出氏三代・大野酒竹・徳富蘇峰・和田維四郎・市島春城・二代目安田善次郎・加賀豊三郎・渡辺霞亭・池田天鈞居・松井簡治・佐佐木信綱・石井光雄・高木利太・大島景雅・守屋高蔵等々、みな錚々たるコレクターです。 ~ 中略 ~ これらのうちで、稀書珍籍の蒐集に於て、質と量を見合わせて、最も見るべきは、私見によれば、大震災の前後を併せた安田善次郎さんと、和田雲村翁で、すぐこれに次ぐは、徳富氏成簀堂文庫でしょう。」
■ 青木信寅
裁判官。サンスクリット文献の収集は有名。死後岩崎静嘉堂文庫へ
■ 黒川春村・黒川真頼・黒川真道
初代春村は浅野梅堂より年長なので、前頁に記載してもよかった。著名な国学者三代にわたる蒐集で、その数8万を越えた。
■ 竹添進一郎
外交官で、のち東大教授となり漢学を講じた。学士院賞を受賞した「左氏会箋」は明治の漢学研究の最高峰ともいわれる。 反町による「井々」というのは蔵書印。
■ 田中光顕
官僚・政治家。陸軍少将、内閣書記官長、警視総監、学習院院長・宮内大臣などを歴任。
■ 井上頼圀
国学者。平田鉄胤門下。蔵書はおよそ6万。「神習文庫図書目録」(昭和10(1935)刊行)あり。
■ 田中教忠
商人・考証家。京都帝室博物館開設時に学芸委員として招聘される。1200点の古文書や古典籍を蒐集。
■ 神田香厳
詩人。代々両替商として栄えた家に生まれ、書画鑑定でも知られた
■ 富岡鉄斎
画家としては小林秀雄がエッセイで高く評価した事で知られるが、本人は自分の本業を儒者だと考えており、最後の文人画家と評価されている。国学にも造詣が深く蔵書は3万巻を数えた。
■ 平出順益・延齢・鏗二郎
これも江戸末期からのコレクション。代々続く名古屋の医家で、競売に立ち会った反町によれば「江戸時代の善本稀書に富んでいた」と
■ 大野酒竹
俳人。医師。古俳書の収集で知られ「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」との言葉も。4000冊の蔵書は東大図書館へ。
■ 徳富蘇峰
ご存知戦前を代表するジャーナリストだが、蘇峰はどちらなのだろう、この時期の稀覯書のコレクターとしても反町によって安田・和田に次ぐ位置づけを与えられているが、なにせ数自体が10万という巨大さであって、これは一ジャーナリストとしての情報環境の整備を目的とする面も強い蒐集ではなかったかと思わせる。事実その浩瀚な「近世日本国民史」の情報量は圧倒的であり、世の幕末モノはたいていこの本を種本にしていた。蘇峰の抜きんでた情報量はこの本に限ったことではなく、例えば山縣有朋の伝記でも同じテーマの本の中では圧倒的だった。
■ 和田維四郎
鉱物学を専門とする東京大学教授で官立八幡製鉄の所長も務めた。反町は、和田を安田と並ぶこの時期最大のコレクターとしているが、彼の蒐集は量的にみれば、和本27077+漢籍18000で計四万五千ほど。明治大正期にはこれを越える蔵書家は幾人もいる。おそらくその質を評価しての判断だろう。日本書誌学のバイブルといわれる著書「訪書餘録」は、反町が自費で復刻するほどの傾倒ぶりである。
彼の蒐集には岩崎久弥と久原房之助という二人のスポンサーがいて、死後その蔵書はこの二人の下へゆく(和本は岩崎、漢籍は久原。後者はのちに五島慶太へ)。その意味で和田は岩崎や久原の古書蒐集の指南役に過ぎないのではという見方も成り立ち、事実そのような書き方をしている文章もあるが、こうした見方に対して反町は否定的である。
■ 市島謙吉
政治家。晩年は早稲田大学の図書館長も務めた。
■ 二代目安田善次郎
安田財閥御曹司。事業は、日銀から結城豊太郎を安田保善社専務理事として迎えてそれに任せ、自身は稀覯本のコレクションに熱中した。
蒐集は2期からなるが、第一期の「松廼舎文庫」は関東大震災で焼失。第二期の「安田文庫」も大戦の空襲で焼失した悲劇のコレクター。反町の上得意だったが、その彼が指摘するように質量ともに明治大正期では一二を争う存在であり、文化的損失も甚大である。
江戸文学中心の前期に対し、後期は古写経・古版本に力を入れた。
■ 加賀豊三郎
大阪の実業家で都立図書館に加賀文庫として寄付した分だけで2万4千百点を数える。
■ 渡辺霞亭
小説家、新聞記者、演劇評論家。江戸文学の蒐集で知られる。
■ 池田金太郎
江戸から明治・大正・昭和前期まで日本を代表する天ぷら屋だった天金の主人。子息は国文学者の池田弥三郎。ここでは本名で記したが反町による天鈞居というのは蔵書印。
■ 松井簡治
国語学者。国語学上重要なコレクション。静嘉堂文庫へ買われた分は5000冊ほど
■ 佐佐木信綱
歌人にして国文の泰斗だったこの人も反町のお得意さんだった。戦後の混乱期に窮乏し、やむを得ず稀覯書を処分したエピソードは痛々しい。
■ 石井光雄
銀行家。日本勧業銀行総裁。戦前に目録「石井積翠軒文庫善本書目」が刊行されている。
■ 高木利太
明治期のジャーナリストで大阪毎日の主筆や専務を務めた。
■ 大島雅太郎
景雅は蔵書印。三井合名株式会社の理事という地位にあった財界人で、歌道では佐佐木信綱門下。源氏物語の写本の収集で知られ、それは親交のあった池田亀鑑の研究にも資したという。
■ 守屋孝蔵
高蔵は孝蔵の誤り。京都の弁護士で、古写経と中国の古鏡のコレクターとして知られる。蒐集物は主に京都国立博物館へ寄付された
江戸時代に比べて個人蔵書家の規模がさらに大きくなっているようです。明治初期は、大名の蔵書が放出されて稀覯本が廉価で流出したこともあり、古書取引市場も黄金期を迎えました。
前頁では反町さんが挙げた11人のほかに10人ほど挙げましたが、ここらへんからは実際に彼らと売り買いしていた彼のフィールドに完全に入ってくるので、正直あまり触らないほうが良いと思います。稲田福堂,永田有翠,水谷不倒,幸堂得知,横崎海運,中川得楼など他に思い当たる名前もないわけではありませんが、彼はその蒐集の質まで把握したうえで、あえて挙げてないわけですから。
ただここでは、蘇峰10万、黒川家8万、井上頼圀6万などの上記のコレクターたちに遜色ない量を誇り、かつ質の点でもきわめて高く評価されている蒐集家だけ数人追加しておきましょう。
□ 狩野享吉
その数10万。前述の通り、反町茂雄は安田善次郎と和田維四郎の2人をこの時期の最大のコレクターと評価したが、一方、脇村義太郎教授はこの狩野のそれを明治期における最大のコレクションとしている。前頁の小山田与清もそうだが、反町がなぜこの巨大な蔵書家を省いたのかよくわからない。
京大文学部長の時には西田幾多郎や内藤湖南を呼び寄せ、前者は京都学派(哲学)の、後者は京都支那学の祖となった。まさしく京大文学部隆盛の基礎を築いたといってもよい学者で、その厖大な書籍のほか、春画コレクターとして世界一との折り紙をつけられている。そのコレクションの形成には、伝説的なせどりの野田園五郎の多大の寄与もあったという。蔵書の大半は死後東北大学へ。
□ 徳川頼倫侯
紀州徳川家の当主。しかしこれは代々受け継いできた大名蔵書とは違い、一侯爵として東京に住んでいた彼が一から築き上げた個人蔵書であり、その数9万6千冊、要した費用は当時の金で150万円。旧大名華族の中で最も豊かだったといわれる紀州の財力がしのばれる。麻布の徳川家邸内にあったこの南葵文庫は旧対馬藩主宗家の記録類、小中村清矩旧蔵の陽春蘆本、依田学海蔵書も含んでいた。これらは関東大震災で蔵書の多くを失った東大図書館へ寄付される。なお南葵文庫は個人図書館の体裁をとっており、頼倫侯は「文庫主」ということで、図書館協会総裁も務めていた。ちなみに紀州徳川の大名家として伝わってきた蔵書は現在和歌山県立図書館と和歌山大学にある。
□ 土肥慶蔵
皮膚病の最高権威で東大医学部教授を務めた。死後その鶚軒文庫は三井家に購入され三井文庫の中へ入るが戦後分散する。東大図書館には専門分野の4618冊(うち約60部が貴重書に指定)、東京医科歯科大図書館には洋書1805冊と和書440冊、国会図書館には漢詩文7898冊がありこれは日本人による漢詩文の世界最大のコレクションとされる。そしてカリフォルニア大学バークレイ校にも2万8000冊あり、これらを単純に足し合わせただけでも4万5千に及ぶ。
□ 木村正辞
前記黒川真頼や、小中村清矩とともに明治初期を代表する国学者の一人。珍本コレクターで蔵書は数万とされる
ほかに明治大正期の著名の人士で本を多く持っていた人をあげておくと・・・
□ 森鴎外 1万8千
□ 中村正直 1万3千
□ 大谷光瑞 大谷文庫だけで5500
□ 内田嘉吉 官僚。逓信次官をつとめた。1万6千。。
□ 渡辺千秋 伯爵。宮内大臣もつとめた。売り立て回に会に参加した反町によると「トラック六台分」という相当の量だが、内容は「程度の高い教養書」が主だったいう興味なさげな表現で、よってこちらに置く
明治維新を迎えた頃、日本における書物の蒐集には主に三つの「巨大な塊」がありました。
A ひとつは前述の大名蔵書、
B つぎに公家蔵書、
C 最後に寺社蔵書です。
また、明治以降の古書取引史には、二度の「黄金期」があります。ひとつめは明治の初期で、もうひとつめは終戦直後です。これらの時期は市場に貴重な稀覯本が大量に、また異常な低価格で流出しています。
大雑把に言って、明治初期の最初の黄金期は、領地と切り離され華族化し、巨大な家を維持できなくなった大名たちによる放出によるものと言い切ってしまってよく、終戦直後の二度目の黄金期は、華族制度廃止に伴う名家の没落にその原因を求めるべきで、こちらも九条家をはじめとする公家華族たちの放出によるもの、と言ってもいいでしょう。
ここでは一度目の黄金期に市場を席巻した蔵書家たちについて解説しましたが、どちらの黄金期が凄いかというと、反町さんによれば断然戦後のものということになります。(次の次の項で解説しますが)
さて、近代以前の三つの巨大な書籍収集のうち、最後に残ってるのは仏典などの寺社による蔵書ですが、こちらは古代中世以来の大寺がいまだ健在であるため、市場には流出していません。(幕府や大名の命令で一部供出させられ写しをとられたことはありました)
一般に大名蔵書よりも公家蔵書のほうが古いものが残っていた、しかし寺社の蔵書はある意味それ以上かもしれない。近衛文麿の「この間の火事でみんな焼けてしまいました」ジョークはさておき、その公家も京の度重なる戦火で幾度となく焼け出されてきました。しかし寺社の場合、叡山などを別にすれば相当なものが残ってるはずです。
そういえば、大物蒐集家たちで仏典に本格的に手を出してる人は少ないようです(例外は安田あたり)。中山正善のコレクションも南蛮・キリスト系には強いが仏典には弱いことで有名でした。これは蒐集者の興味がそちらに向かなかったということもありましょうが、なにより他の分野のように重要なものが廉価で出回っていなかったことが一番の理由ではないのでしょうか。
「明治以後には、善本の蒐集家の数は一段と増加致します。青木信寅・黒川家三代・竹添井々・田中光顕・井上頼圀・田中勘兵衛・神田香厳・富岡鉄斎・平出氏三代・大野酒竹・徳富蘇峰・和田維四郎・市島春城・二代目安田善次郎・加賀豊三郎・渡辺霞亭・池田天鈞居・松井簡治・佐佐木信綱・石井光雄・高木利太・大島景雅・守屋高蔵等々、みな錚々たるコレクターです。 ~ 中略 ~ これらのうちで、稀書珍籍の蒐集に於て、質と量を見合わせて、最も見るべきは、私見によれば、大震災の前後を併せた安田善次郎さんと、和田雲村翁で、すぐこれに次ぐは、徳富氏成簀堂文庫でしょう。」
■ 青木信寅
裁判官。サンスクリット文献の収集は有名。死後岩崎静嘉堂文庫へ
■ 黒川春村・黒川真頼・黒川真道
初代春村は浅野梅堂より年長なので、前頁に記載してもよかった。著名な国学者三代にわたる蒐集で、その数8万を越えた。
■ 竹添進一郎
外交官で、のち東大教授となり漢学を講じた。学士院賞を受賞した「左氏会箋」は明治の漢学研究の最高峰ともいわれる。 反町による「井々」というのは蔵書印。
■ 田中光顕
官僚・政治家。陸軍少将、内閣書記官長、警視総監、学習院院長・宮内大臣などを歴任。
■ 井上頼圀
国学者。平田鉄胤門下。蔵書はおよそ6万。「神習文庫図書目録」(昭和10(1935)刊行)あり。
■ 田中教忠
商人・考証家。京都帝室博物館開設時に学芸委員として招聘される。1200点の古文書や古典籍を蒐集。
■ 神田香厳
詩人。代々両替商として栄えた家に生まれ、書画鑑定でも知られた
■ 富岡鉄斎
画家としては小林秀雄がエッセイで高く評価した事で知られるが、本人は自分の本業を儒者だと考えており、最後の文人画家と評価されている。国学にも造詣が深く蔵書は3万巻を数えた。
■ 平出順益・延齢・鏗二郎
これも江戸末期からのコレクション。代々続く名古屋の医家で、競売に立ち会った反町によれば「江戸時代の善本稀書に富んでいた」と
■ 大野酒竹
俳人。医師。古俳書の収集で知られ「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」との言葉も。4000冊の蔵書は東大図書館へ。
■ 徳富蘇峰
ご存知戦前を代表するジャーナリストだが、蘇峰はどちらなのだろう、この時期の稀覯書のコレクターとしても反町によって安田・和田に次ぐ位置づけを与えられているが、なにせ数自体が10万という巨大さであって、これは一ジャーナリストとしての情報環境の整備を目的とする面も強い蒐集ではなかったかと思わせる。事実その浩瀚な「近世日本国民史」の情報量は圧倒的であり、世の幕末モノはたいていこの本を種本にしていた。蘇峰の抜きんでた情報量はこの本に限ったことではなく、例えば山縣有朋の伝記でも同じテーマの本の中では圧倒的だった。
■ 和田維四郎
鉱物学を専門とする東京大学教授で官立八幡製鉄の所長も務めた。反町は、和田を安田と並ぶこの時期最大のコレクターとしているが、彼の蒐集は量的にみれば、和本27077+漢籍18000で計四万五千ほど。明治大正期にはこれを越える蔵書家は幾人もいる。おそらくその質を評価しての判断だろう。日本書誌学のバイブルといわれる著書「訪書餘録」は、反町が自費で復刻するほどの傾倒ぶりである。
彼の蒐集には岩崎久弥と久原房之助という二人のスポンサーがいて、死後その蔵書はこの二人の下へゆく(和本は岩崎、漢籍は久原。後者はのちに五島慶太へ)。その意味で和田は岩崎や久原の古書蒐集の指南役に過ぎないのではという見方も成り立ち、事実そのような書き方をしている文章もあるが、こうした見方に対して反町は否定的である。
■ 市島謙吉
政治家。晩年は早稲田大学の図書館長も務めた。
■ 二代目安田善次郎
安田財閥御曹司。事業は、日銀から結城豊太郎を安田保善社専務理事として迎えてそれに任せ、自身は稀覯本のコレクションに熱中した。
蒐集は2期からなるが、第一期の「松廼舎文庫」は関東大震災で焼失。第二期の「安田文庫」も大戦の空襲で焼失した悲劇のコレクター。反町の上得意だったが、その彼が指摘するように質量ともに明治大正期では一二を争う存在であり、文化的損失も甚大である。
江戸文学中心の前期に対し、後期は古写経・古版本に力を入れた。
■ 加賀豊三郎
大阪の実業家で都立図書館に加賀文庫として寄付した分だけで2万4千百点を数える。
■ 渡辺霞亭
小説家、新聞記者、演劇評論家。江戸文学の蒐集で知られる。
■ 池田金太郎
江戸から明治・大正・昭和前期まで日本を代表する天ぷら屋だった天金の主人。子息は国文学者の池田弥三郎。ここでは本名で記したが反町による天鈞居というのは蔵書印。
■ 松井簡治
国語学者。国語学上重要なコレクション。静嘉堂文庫へ買われた分は5000冊ほど
■ 佐佐木信綱
歌人にして国文の泰斗だったこの人も反町のお得意さんだった。戦後の混乱期に窮乏し、やむを得ず稀覯書を処分したエピソードは痛々しい。
■ 石井光雄
銀行家。日本勧業銀行総裁。戦前に目録「石井積翠軒文庫善本書目」が刊行されている。
■ 高木利太
明治期のジャーナリストで大阪毎日の主筆や専務を務めた。
■ 大島雅太郎
景雅は蔵書印。三井合名株式会社の理事という地位にあった財界人で、歌道では佐佐木信綱門下。源氏物語の写本の収集で知られ、それは親交のあった池田亀鑑の研究にも資したという。
■ 守屋孝蔵
高蔵は孝蔵の誤り。京都の弁護士で、古写経と中国の古鏡のコレクターとして知られる。蒐集物は主に京都国立博物館へ寄付された
江戸時代に比べて個人蔵書家の規模がさらに大きくなっているようです。明治初期は、大名の蔵書が放出されて稀覯本が廉価で流出したこともあり、古書取引市場も黄金期を迎えました。
前頁では反町さんが挙げた11人のほかに10人ほど挙げましたが、ここらへんからは実際に彼らと売り買いしていた彼のフィールドに完全に入ってくるので、正直あまり触らないほうが良いと思います。稲田福堂,永田有翠,水谷不倒,幸堂得知,横崎海運,中川得楼など他に思い当たる名前もないわけではありませんが、彼はその蒐集の質まで把握したうえで、あえて挙げてないわけですから。
ただここでは、蘇峰10万、黒川家8万、井上頼圀6万などの上記のコレクターたちに遜色ない量を誇り、かつ質の点でもきわめて高く評価されている蒐集家だけ数人追加しておきましょう。
□ 狩野享吉
その数10万。前述の通り、反町茂雄は安田善次郎と和田維四郎の2人をこの時期の最大のコレクターと評価したが、一方、脇村義太郎教授はこの狩野のそれを明治期における最大のコレクションとしている。前頁の小山田与清もそうだが、反町がなぜこの巨大な蔵書家を省いたのかよくわからない。
京大文学部長の時には西田幾多郎や内藤湖南を呼び寄せ、前者は京都学派(哲学)の、後者は京都支那学の祖となった。まさしく京大文学部隆盛の基礎を築いたといってもよい学者で、その厖大な書籍のほか、春画コレクターとして世界一との折り紙をつけられている。そのコレクションの形成には、伝説的なせどりの野田園五郎の多大の寄与もあったという。蔵書の大半は死後東北大学へ。
□ 徳川頼倫侯
紀州徳川家の当主。しかしこれは代々受け継いできた大名蔵書とは違い、一侯爵として東京に住んでいた彼が一から築き上げた個人蔵書であり、その数9万6千冊、要した費用は当時の金で150万円。旧大名華族の中で最も豊かだったといわれる紀州の財力がしのばれる。麻布の徳川家邸内にあったこの南葵文庫は旧対馬藩主宗家の記録類、小中村清矩旧蔵の陽春蘆本、依田学海蔵書も含んでいた。これらは関東大震災で蔵書の多くを失った東大図書館へ寄付される。なお南葵文庫は個人図書館の体裁をとっており、頼倫侯は「文庫主」ということで、図書館協会総裁も務めていた。ちなみに紀州徳川の大名家として伝わってきた蔵書は現在和歌山県立図書館と和歌山大学にある。
□ 土肥慶蔵
皮膚病の最高権威で東大医学部教授を務めた。死後その鶚軒文庫は三井家に購入され三井文庫の中へ入るが戦後分散する。東大図書館には専門分野の4618冊(うち約60部が貴重書に指定)、東京医科歯科大図書館には洋書1805冊と和書440冊、国会図書館には漢詩文7898冊がありこれは日本人による漢詩文の世界最大のコレクションとされる。そしてカリフォルニア大学バークレイ校にも2万8000冊あり、これらを単純に足し合わせただけでも4万5千に及ぶ。
□ 木村正辞
前記黒川真頼や、小中村清矩とともに明治初期を代表する国学者の一人。珍本コレクターで蔵書は数万とされる
ほかに明治大正期の著名の人士で本を多く持っていた人をあげておくと・・・
□ 森鴎外 1万8千
□ 中村正直 1万3千
□ 大谷光瑞 大谷文庫だけで5500
□ 内田嘉吉 官僚。逓信次官をつとめた。1万6千。。
□ 渡辺千秋 伯爵。宮内大臣もつとめた。売り立て回に会に参加した反町によると「トラック六台分」という相当の量だが、内容は「程度の高い教養書」が主だったいう興味なさげな表現で、よってこちらに置く
明治維新を迎えた頃、日本における書物の蒐集には主に三つの「巨大な塊」がありました。
A ひとつは前述の大名蔵書、
B つぎに公家蔵書、
C 最後に寺社蔵書です。
また、明治以降の古書取引史には、二度の「黄金期」があります。ひとつめは明治の初期で、もうひとつめは終戦直後です。これらの時期は市場に貴重な稀覯本が大量に、また異常な低価格で流出しています。
大雑把に言って、明治初期の最初の黄金期は、領地と切り離され華族化し、巨大な家を維持できなくなった大名たちによる放出によるものと言い切ってしまってよく、終戦直後の二度目の黄金期は、華族制度廃止に伴う名家の没落にその原因を求めるべきで、こちらも九条家をはじめとする公家華族たちの放出によるもの、と言ってもいいでしょう。
ここでは一度目の黄金期に市場を席巻した蔵書家たちについて解説しましたが、どちらの黄金期が凄いかというと、反町さんによれば断然戦後のものということになります。(次の次の項で解説しますが)
さて、近代以前の三つの巨大な書籍収集のうち、最後に残ってるのは仏典などの寺社による蔵書ですが、こちらは古代中世以来の大寺がいまだ健在であるため、市場には流出していません。(幕府や大名の命令で一部供出させられ写しをとられたことはありました)
一般に大名蔵書よりも公家蔵書のほうが古いものが残っていた、しかし寺社の蔵書はある意味それ以上かもしれない。近衛文麿の「この間の火事でみんな焼けてしまいました」ジョークはさておき、その公家も京の度重なる戦火で幾度となく焼け出されてきました。しかし寺社の場合、叡山などを別にすれば相当なものが残ってるはずです。
そういえば、大物蒐集家たちで仏典に本格的に手を出してる人は少ないようです(例外は安田あたり)。中山正善のコレクションも南蛮・キリスト系には強いが仏典には弱いことで有名でした。これは蒐集者の興味がそちらに向かなかったということもありましょうが、なにより他の分野のように重要なものが廉価で出回っていなかったことが一番の理由ではないのでしょうか。
[8] 鏡像フーガ4 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流をはじめる
反町の主題にある「(江戸)中期以降では松平定信・水野忠央・屋代弘賢・狩谷?斎・塙保己一・新見正路・浅野梅堂等々。更に大田南畝・馬琴・種彦・豊芥子に至るまで、その数は相当に多くあります」の言葉のとおり、ここから市井の人たちの蒐集が本格的になります。
多くの蔵書を持つには当人の条件以外に、まず得るべき本が市場になければ話になりません。この面での西洋中世の極度の貧しさは後で詳説しますが、昭和元禄の時代になって井上ひさしや谷沢永一が幕府蔵書をはるかに上回る冊数を保有していたのは何より時代のもつ情報の豊富さの証とも言えました。中期以降の江戸時代がそうした条件を備えてきたということなのでしょう。
では前章を引き継ぐような大名系の蔵書家二人から。
■ まず松平定信の場合、彼の蔵書目録は現在市販されているので参考になる。「松平定信蔵書目録全2巻[監修]朝倉治彦[解説]高倉一紀 揃定価43,200円(揃本体40,000円)」
■ 次に水野忠央。紀州藩家老で新宮城の当主だが、その蔵書は四万点ともいわれ、これをもとに編纂した「丹鶴叢書」は全152巻に及ぶ。
次に屋代輪池以下は、主として学者・文化人などが続きます。
■ 屋代弘賢 宝暦8年(1758年) - 天保12年閏1月18日(1841年3月10日)
国学者で、幕府の右筆も務めた。塙保己一門下であり、『群書類従』の編纂にも携わっている。上野不忍池のほとりの「不忍文庫」は蔵書5万冊を誇り、名実ともにこの時代の代表的な蔵書家。反町も江戸時代を代表する三人として松雲公・浅野梅堂と並称している。小山田与清・大田南畝・谷文晁など、他の大物蔵書家とも交友があり、そのネットワークの中心にいた。
反町は信頼に値する目録はないとしているが、現在ではこちらも蔵書目録が市販されている。(朝倉治彦編『屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録』全6巻 ゆまに書房、2001年)
詳しくは「江戸の蔵書家たち」 (講談社選書メチエ) 1996/3岡村 敬二を。
■ 狩谷?斎 安永4年12月1日(1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日(1835年8月27日)
江戸後期の考証学者。父は書籍商でのち狩谷保古の養子に。津軽藩御用達という富裕な町人身分だったが、上記の屋代弘賢に師事して和漢の学を授けられる。蔵書は2万ほど。
晩年の鴎外が『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』の史伝三部作に続いてこの狩谷?斎を取り上げる予定だったことはよく知られているが、晩年のエッセイでぼやいてたように掲載紙サイドの不評により、このシリーズは打ち切りになったようだ。
■ 塙保己一 延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日)
ご存知盲目の国学者だが、どうやって本を読んでいたのかわからない。所有数は、山崎美成によると2万余巻だが、一方足代広訓によると6万巻となっている。
とにかく、塙保己一→屋代弘賢→狩谷?斎という国学の師弟関係はそのまま巨大な蔵書を有する情報の宝庫だったわけである。
■ 新見正路 寛政3.9.12(1791.10.9) - 嘉永1.6.27(1848.7.27)
江戸後期の幕臣で、徳川家慶の側近である御側御用取次も務めた。邸内に賜蘆文庫を設ける。 関西人にはあの天保山を築いた事でもよく知られている。
■ 浅野長祚 文化13年6月9日(1816年7月3日) - 明治13年(1880年)2月17日
浅野梅堂の名の方が通りがいい。幕末から明治にかけての幕臣(旗本)だが、芸術に造詣が深く自身も多くの作品を残す一方で中国書画の鑑定家では当時第一人者と称された。
蔵書家としては5万巻を有し、大名蔵書を別にすれば、江戸期では小山田与清や屋代弘賢と共に最大クラスだろう。時期的にはもう幕末なので、19世紀初頭の屋代や太田たちによる交流の次の時代の蔵書家といえる。
■ 大田南畝 寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日)
幕府御家人の傍ら、狂歌師として名を馳せ唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われた。所有は2万ほど。
江戸の蔵書家ネットワークの中心にいた彼が、大坂銅座に赴任した折りに木村蒹葭堂や上田秋成との関西ネットワークと交流したことはこの時代のトピックと言える。
■ 滝沢馬琴
これもみなさんご存知。南総里見八犬伝などで有名な当時のベストセラー作家。
■ 柳亭種彦 天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))
江戸時代後期の戯作者で彼も馬琴同様当時のベストセラー作家。
■ 石塚豊芥子
江戸末期の考証学者、というより市井の考証家で、珍本のコレクターとして知られる。上記種彦とも交友があり。
反町茂雄は江戸後期からは以上の11人を挙げています。たしかに大名は少なくなりましたが、市井の人とはいっても、まだ幕臣で学者を兼ねているような人が多いです。
ひとつ不思議なのは、なぜか江戸第一とも称された小山田与清の名前がないことです。これは専門的な古書籍商さんの事ゆえ日々の取引の中で蔵書印等から彼らのコレクションの「質」を見極めた上での判断なのか、それとも単にこのとき小山田の存在を忘れていただけなのか、そこのとこはよくわかりません。
で、小山田をはじめとして、なぜか触れられなかったこの時代の主要な蔵書家10人をここから示しておきましょう。特に反町は上方の蔵書家にはほとんど触れてないので、東西の交流が盛んだったこの時期ではこの部分は重要なんです。
□ 小山田 与清 天明3年3月17日(1783年4月18日)- 弘化4年3月25日(1847年5月9日)
江戸後期の国学者。古屋昔陽・村田春海の門下。擁書楼という書庫をつくり、同学諸氏の閲覧に供した。蔵書はおよそ5万ほど。これらは没後に水戸彰考館へゆく。
江戸第一といわれ、屋代弘賢と双璧とされていた小山田だが、彼も国学者であり、この時代の蔵書家たちのほとんどが国学系で朱子学者が少ないのに気づく。
□ 岸本由豆流 寛政元年(1789年) - 弘化3年閏5月17日(1846年7月10日)
江戸後期の国学者。村田春海門下。典籍の収集家で蔵書は3万。晩年浅草聖天町に住み、狩谷?斎、市野迷庵、村田了阿、北静盧らと交友。
□ 谷文晁
画壇アカデミズムの頂点にいた彼が、市井の絵師を代表する北斎と共に将軍家斉の御前で絵を描いたエピソードは有名。北斎とは違い大教養人で、和歌や漢詩をよくした。その交友の広さもwikiにあるようにかなりのもの。
小山田与清・屋代弘賢・大田南畝・岸本由豆流・谷文晁らの間には互いに交流があり、そのネットワークの中核にいた大田南畝が、上方の蔵書家たちの中心的存在だった木村蒹葭堂を訪問したくだりは、この時代のトピックといえます。
南畝は享和元年(1801)大坂銅座勤務の折に蒹葭堂宅を訪問し、翌正月には、蒹葭堂が南畝を訪問し長時間歓談。二人の周辺では名だたる蔵書家が集い読書会を催したり趣味を介した交流が行われます。ただ蒹葭堂はその月の25日に亡くなっているので交遊もこれで終わりになりました。
この時期は他にも、屋代弘賢は京都・奈良の古社寺で古宝物の調査をしているし、狩谷?斎も京都の書肆・竹苞楼銭屋惣四郎を数度にわたり訪問してその助力の下に貴重な古典籍を蒐集しています。谷文晁のように東西の両サークルに属していた蔵書家もおり、江戸と上方の交流が盛んだった様子がよくわかります。
□ 木村孔恭
一般に木村蒹葭堂としての方が通りがよい。文人、文人画家、本草学者と呼称は様々だが、物産学に通じ、禅にも精通、蘭語・ラテン語を解し、煎茶、篆刻をも嗜む。
裕福な商家の財力を背景に2万を越える蔵書の他、書画・骨董・器物・地図・鉱物・動植物標本に及ぶ一大コレクタションを形成した。その意味では英国のハンス・スローンにも比せられる存在といえよう。邸宅跡が現在大阪市立中央図書館になっている事実もスローンを思わせる。
知識やコレクションを求めて諸国から来た多くの人を貴賤を問わず受け入れ、邸宅は当時の文化サロンとなった。「浪速の知の巨人」とも称せられる。幕命により蔵書は彼の死後昌平坂学問所へ。
□ 上田秋成
雨月物語で有名な彼も蒹葭堂周辺のサークルの一員。
□ 頼春水
儒者・詩人。頼山陽の父ということでもよく知られているが、その詩才は当時から評価が高かった。大阪時代に蒹葭堂と交流。
□ 松浦静山
平戸藩主。随筆集『甲子夜話』は現在でも読まれている名著である。3万3000の蔵書をもつ彼の場合、大名蔵書として本来前頁に記すべきかもしれないが、蒹葭堂サークルの一員としてこちらに置いた。
この時代で他に重要な存在として、江戸では伊能忠敬、渋江抽斎を、上方では大塩平八郎を挙げておきます。
□ 伊能忠敬
江戸後期の商人で、一般には測量家というイメージだろう
□ 渋江抽斎
今では鴎外の史伝で有名。考証学者で医家。蔵書は1万。
□ 大塩平八郎
大塩の乱で知られる彼も5万に及ぶ蔵書を有していたと伝えられる。これは叛乱の資金源になったようで、売却して600両になったとか。
《トピック 江戸で一番多く本を持っていたのはだれか》
このサイトでは手堅く、小山田与清・屋代弘賢・浅野梅堂あたりを5万クラスで最高レベルとしていますが、こういうのは異説が多くて、今となっては正確に確かめることは不可能です。
屋代弘賢は、小宮山欄軒によるとじつは9万3千あったとされているし、塙保己一は、山崎美成によれば2万余巻ということだが下記の史料では6万巻になっています。
足代広訓の言うところによると、江戸で一番本があるのは、①湯島の聖堂(林家の家塾、現在の東大の前身)で、以下、②守村次郎兵衛(俳人)の10万、③蜂須賀治昭の6~7万、④塙保己一の6万、⑤朽木兵庫の3万余、⑥古賀?庵の1万、だそうです。
多くの蔵書を持つには当人の条件以外に、まず得るべき本が市場になければ話になりません。この面での西洋中世の極度の貧しさは後で詳説しますが、昭和元禄の時代になって井上ひさしや谷沢永一が幕府蔵書をはるかに上回る冊数を保有していたのは何より時代のもつ情報の豊富さの証とも言えました。中期以降の江戸時代がそうした条件を備えてきたということなのでしょう。
では前章を引き継ぐような大名系の蔵書家二人から。
■ まず松平定信の場合、彼の蔵書目録は現在市販されているので参考になる。「松平定信蔵書目録全2巻[監修]朝倉治彦[解説]高倉一紀 揃定価43,200円(揃本体40,000円)」
■ 次に水野忠央。紀州藩家老で新宮城の当主だが、その蔵書は四万点ともいわれ、これをもとに編纂した「丹鶴叢書」は全152巻に及ぶ。
次に屋代輪池以下は、主として学者・文化人などが続きます。
■ 屋代弘賢 宝暦8年(1758年) - 天保12年閏1月18日(1841年3月10日)
国学者で、幕府の右筆も務めた。塙保己一門下であり、『群書類従』の編纂にも携わっている。上野不忍池のほとりの「不忍文庫」は蔵書5万冊を誇り、名実ともにこの時代の代表的な蔵書家。反町も江戸時代を代表する三人として松雲公・浅野梅堂と並称している。小山田与清・大田南畝・谷文晁など、他の大物蔵書家とも交友があり、そのネットワークの中心にいた。
反町は信頼に値する目録はないとしているが、現在ではこちらも蔵書目録が市販されている。(朝倉治彦編『屋代弘賢・不忍文庫蔵書目録』全6巻 ゆまに書房、2001年)
詳しくは「江戸の蔵書家たち」 (講談社選書メチエ) 1996/3岡村 敬二を。
■ 狩谷?斎 安永4年12月1日(1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日(1835年8月27日)
江戸後期の考証学者。父は書籍商でのち狩谷保古の養子に。津軽藩御用達という富裕な町人身分だったが、上記の屋代弘賢に師事して和漢の学を授けられる。蔵書は2万ほど。
晩年の鴎外が『澁江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』の史伝三部作に続いてこの狩谷?斎を取り上げる予定だったことはよく知られているが、晩年のエッセイでぼやいてたように掲載紙サイドの不評により、このシリーズは打ち切りになったようだ。
■ 塙保己一 延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日)
ご存知盲目の国学者だが、どうやって本を読んでいたのかわからない。所有数は、山崎美成によると2万余巻だが、一方足代広訓によると6万巻となっている。
とにかく、塙保己一→屋代弘賢→狩谷?斎という国学の師弟関係はそのまま巨大な蔵書を有する情報の宝庫だったわけである。
■ 新見正路 寛政3.9.12(1791.10.9) - 嘉永1.6.27(1848.7.27)
江戸後期の幕臣で、徳川家慶の側近である御側御用取次も務めた。邸内に賜蘆文庫を設ける。 関西人にはあの天保山を築いた事でもよく知られている。
■ 浅野長祚 文化13年6月9日(1816年7月3日) - 明治13年(1880年)2月17日
浅野梅堂の名の方が通りがいい。幕末から明治にかけての幕臣(旗本)だが、芸術に造詣が深く自身も多くの作品を残す一方で中国書画の鑑定家では当時第一人者と称された。
蔵書家としては5万巻を有し、大名蔵書を別にすれば、江戸期では小山田与清や屋代弘賢と共に最大クラスだろう。時期的にはもう幕末なので、19世紀初頭の屋代や太田たちによる交流の次の時代の蔵書家といえる。
■ 大田南畝 寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日)
幕府御家人の傍ら、狂歌師として名を馳せ唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家と言われた。所有は2万ほど。
江戸の蔵書家ネットワークの中心にいた彼が、大坂銅座に赴任した折りに木村蒹葭堂や上田秋成との関西ネットワークと交流したことはこの時代のトピックと言える。
■ 滝沢馬琴
これもみなさんご存知。南総里見八犬伝などで有名な当時のベストセラー作家。
■ 柳亭種彦 天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))
江戸時代後期の戯作者で彼も馬琴同様当時のベストセラー作家。
■ 石塚豊芥子
江戸末期の考証学者、というより市井の考証家で、珍本のコレクターとして知られる。上記種彦とも交友があり。
反町茂雄は江戸後期からは以上の11人を挙げています。たしかに大名は少なくなりましたが、市井の人とはいっても、まだ幕臣で学者を兼ねているような人が多いです。
ひとつ不思議なのは、なぜか江戸第一とも称された小山田与清の名前がないことです。これは専門的な古書籍商さんの事ゆえ日々の取引の中で蔵書印等から彼らのコレクションの「質」を見極めた上での判断なのか、それとも単にこのとき小山田の存在を忘れていただけなのか、そこのとこはよくわかりません。
で、小山田をはじめとして、なぜか触れられなかったこの時代の主要な蔵書家10人をここから示しておきましょう。特に反町は上方の蔵書家にはほとんど触れてないので、東西の交流が盛んだったこの時期ではこの部分は重要なんです。
□ 小山田 与清 天明3年3月17日(1783年4月18日)- 弘化4年3月25日(1847年5月9日)
江戸後期の国学者。古屋昔陽・村田春海の門下。擁書楼という書庫をつくり、同学諸氏の閲覧に供した。蔵書はおよそ5万ほど。これらは没後に水戸彰考館へゆく。
江戸第一といわれ、屋代弘賢と双璧とされていた小山田だが、彼も国学者であり、この時代の蔵書家たちのほとんどが国学系で朱子学者が少ないのに気づく。
□ 岸本由豆流 寛政元年(1789年) - 弘化3年閏5月17日(1846年7月10日)
江戸後期の国学者。村田春海門下。典籍の収集家で蔵書は3万。晩年浅草聖天町に住み、狩谷?斎、市野迷庵、村田了阿、北静盧らと交友。
□ 谷文晁
画壇アカデミズムの頂点にいた彼が、市井の絵師を代表する北斎と共に将軍家斉の御前で絵を描いたエピソードは有名。北斎とは違い大教養人で、和歌や漢詩をよくした。その交友の広さもwikiにあるようにかなりのもの。
小山田与清・屋代弘賢・大田南畝・岸本由豆流・谷文晁らの間には互いに交流があり、そのネットワークの中核にいた大田南畝が、上方の蔵書家たちの中心的存在だった木村蒹葭堂を訪問したくだりは、この時代のトピックといえます。
南畝は享和元年(1801)大坂銅座勤務の折に蒹葭堂宅を訪問し、翌正月には、蒹葭堂が南畝を訪問し長時間歓談。二人の周辺では名だたる蔵書家が集い読書会を催したり趣味を介した交流が行われます。ただ蒹葭堂はその月の25日に亡くなっているので交遊もこれで終わりになりました。
この時期は他にも、屋代弘賢は京都・奈良の古社寺で古宝物の調査をしているし、狩谷?斎も京都の書肆・竹苞楼銭屋惣四郎を数度にわたり訪問してその助力の下に貴重な古典籍を蒐集しています。谷文晁のように東西の両サークルに属していた蔵書家もおり、江戸と上方の交流が盛んだった様子がよくわかります。
□ 木村孔恭
一般に木村蒹葭堂としての方が通りがよい。文人、文人画家、本草学者と呼称は様々だが、物産学に通じ、禅にも精通、蘭語・ラテン語を解し、煎茶、篆刻をも嗜む。
裕福な商家の財力を背景に2万を越える蔵書の他、書画・骨董・器物・地図・鉱物・動植物標本に及ぶ一大コレクタションを形成した。その意味では英国のハンス・スローンにも比せられる存在といえよう。邸宅跡が現在大阪市立中央図書館になっている事実もスローンを思わせる。
知識やコレクションを求めて諸国から来た多くの人を貴賤を問わず受け入れ、邸宅は当時の文化サロンとなった。「浪速の知の巨人」とも称せられる。幕命により蔵書は彼の死後昌平坂学問所へ。
□ 上田秋成
雨月物語で有名な彼も蒹葭堂周辺のサークルの一員。
□ 頼春水
儒者・詩人。頼山陽の父ということでもよく知られているが、その詩才は当時から評価が高かった。大阪時代に蒹葭堂と交流。
□ 松浦静山
平戸藩主。随筆集『甲子夜話』は現在でも読まれている名著である。3万3000の蔵書をもつ彼の場合、大名蔵書として本来前頁に記すべきかもしれないが、蒹葭堂サークルの一員としてこちらに置いた。
この時代で他に重要な存在として、江戸では伊能忠敬、渋江抽斎を、上方では大塩平八郎を挙げておきます。
□ 伊能忠敬
江戸後期の商人で、一般には測量家というイメージだろう
□ 渋江抽斎
今では鴎外の史伝で有名。考証学者で医家。蔵書は1万。
□ 大塩平八郎
大塩の乱で知られる彼も5万に及ぶ蔵書を有していたと伝えられる。これは叛乱の資金源になったようで、売却して600両になったとか。
《トピック 江戸で一番多く本を持っていたのはだれか》
このサイトでは手堅く、小山田与清・屋代弘賢・浅野梅堂あたりを5万クラスで最高レベルとしていますが、こういうのは異説が多くて、今となっては正確に確かめることは不可能です。
屋代弘賢は、小宮山欄軒によるとじつは9万3千あったとされているし、塙保己一は、山崎美成によれば2万余巻ということだが下記の史料では6万巻になっています。
足代広訓の言うところによると、江戸で一番本があるのは、①湯島の聖堂(林家の家塾、現在の東大の前身)で、以下、②守村次郎兵衛(俳人)の10万、③蜂須賀治昭の6~7万、④塙保己一の6万、⑤朽木兵庫の3万余、⑥古賀?庵の1万、だそうです。
[7] 鏡像フーガ3 大名たち
引き続き引用。
「江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起(松雲公)・徳川光圀から、 ~中略~ 就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう」
■ この時代から反町によって挙げられているのは、学問好きだった家康をはじめとして、天海僧正・桂宮智仁・智忠・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起・徳川光圀の八人。
□ 管理人がほかに加えるべき存在としては、天海と同様に家康側近だった林羅山ぐらいでしょう。
いまだ江戸の盛期には至らないので、かりにコレクターを官系と民系に分けるなら、やはり前者の色合いが強く、その点では前代までの傾向を引き継いでいます。しかしその最後の時代といえるかもしれません。
反町が江戸期で最も重要な蔵書家とした5代藩主前田綱紀(1643-1724)の尊経閣は和書2万種あまり、漢籍は1万7千種、その他文献が5600種、多くが絶版および極めて貴重な書籍です。
ちなみに、家康が3000(これは晩年の駿府時代に残したものか?)、脇坂八雲軒は数千、松平忠房は島原図書館に残った分で1万余。また天海は1万1400、林羅山が数万といわれます。羅山は晩年火災で蔵書を失いそのショックなのか時をおかずに亡くなりましたが、林家の私塾は事実上の最高学府だけあって書は増え続け、官学化された林述斎の時(寛政九年 1797)には、江戸では紅葉山文庫に並ぶ存在となっていました。
《トピック 大名たちの蔵書》
上で挙げられたのは、公家の親子と家康側近の2人をのぞけば、皆大名です。大名の蔵書は個人の収集といえるのか、国(藩)の蔵書というべきか迷うところがあり、また代々継承されていくので個人趣味嗜好の色も薄くなってゆきます。蒐集の取捨選択をを専門の者が行うことも通例で、前田家の場合は初期に木下順庵がその任に当ったことはよく知られています。海外でも事情は同様。メディチ家司書マリアベーキ、マザランの司書ガブリエル・ノーデ、二代目スペンサー伯におけるトマス・ディブティンなどは書誌学史上では有名な存在ですね。
とはいっても、本好きな殿様、歴代の蒐集活動に特に大きな影響を与えた殿様がいることも一方事実で、蔵書家の星として前田綱起を反町が挙げたことは、反町さんの定義自体はあいまいで前田と屋代・浅野を並べることにかなりの無理はあるものの、理解できないこともありません。大名蔵書は個人のコレクションというより、藩の蔵書という性格が強いですが、その基礎を作り最大の蒐集活動を行った人物か存在することも往々です。で、そうしタイプの最大の例として、前田綱起=加賀百万石が存在するわけです。ただそれは単なる集書活動にとどまらず、諸藩から様々な異本を借り受け、校訂して正しい版を作る、といった名君による一種の文化事業なんですね。(その反面、「前田は本を返さない」ことで悪評がありました)
以下各藩を覧ていきましょう。
まず大名による蔵書で、世に「三大」と冠せられたのは、前述した加賀の前田綱起のほか、幕府将軍家、豊後の毛利高標の三つ。
□ 幕府紅葉山文庫はその数12万3000。末期には16万あったとも言われます。加賀前田の尊経閣では前田綱起がコレクションの基礎を築きましたが、幕府紅葉山文庫の場合それにあたるのが八代吉宗で、この時代の拡充は特記されるべきでしょう。国学の隆盛と期を同じくし、またそれに刺激を与えています。三上参次の「江戸時代史」によると、書物奉行に下田幸太夫を任じて国書の充実を図り、吉宗自身が一条兼良の「桃華蘂葉」を校正したなんて話があるから半端ではないですね。ほかにも歴代の書物奉行(常時四人ほど)には著名な人士が多数です。
□ 豊後毛利高標の佐伯文庫はおよそ8万。しかし2万巻を幕府に献上しています。石高わずか2万石で徳川や前田に並ぶ質の高い本を集めた高標は学者大名と呼ばれ、この蒐集もほとんど彼一代で形成されたものです。その内容は漢籍中心で経・史・子・集は勿論、ト占・農・医と広く各部類にわたり、宋・元・明版などの古い版も多く、洋書も相当あったといいます。それは明治期に清の大蔵書家方功恵の使いが中国で消えた孤本を買いに来た程でした。
おしなべて大藩の書庫は充実しているようで、肥後細川藩は漢籍だけで10万あったとされます。
尾張徳川家も家康から分与された3000冊が、幕末では5万に膨らんでいました。(ただその三分の一が明治期に流出)
徳島藩25万石の蜂須賀家も書の蒐集では名高く、最盛期は江戸屋敷に5万から6万あったとの事。
(そうした反面で、外様では前田に次ぐ石高の仙台の伊達文庫には4170しかありませんでした。)
他にも、毛利高標と並んで学者三大名と称された市橋長明・池田定常の二人も少禄ながら質の高い蒐集をしていました。長昭は宋版・元版の漢籍を数多く所蔵しそこから厳選した30部を湯島聖堂に献納しています(うち21部が重文です)。定常も、佐藤一斎に学ぶこと40年に及び自身でも多くの著述をなしましたが、江戸大火の折、膨大な蔵書と原稿の大半を失っています。
ちなみに幕府の紅葉山文庫は特に吉宗時代に顕著なのですが、前田の尊経閣同様、明らかに集書・校正事業です。買い集めるだけでなく、公家・大名・寺社・儒者に借り受けて写しをとり、諸本を比較し校正する。それは古文書から古器物に至るまでコピーを作るほど徹底している、しかもそれを幕府の権力づくでやるわけです。ある意味これはドイツでやってたモヌメンタ=ゲルマニアエ=ヒストリエアカに近い性質のものかもしれません。一条家では「関東よりの借書の依頼は全く迷惑なり」とか日記にしたためていました。
この文庫は維新後二つに分かれ、宮内省と内閣文庫へ。現在の宮内庁書陵部は欽定憲法の時代ならいわゆる皇室蔵書に当たるんでしょうか? こちらも歴代の図書頭には著名な人が多く、田中光顕・森鴎外など御本人自身がこのブログで名前を挙げられているほどの蔵書家もいます。
「江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起(松雲公)・徳川光圀から、 ~中略~ 就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう」
■ この時代から反町によって挙げられているのは、学問好きだった家康をはじめとして、天海僧正・桂宮智仁・智忠・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起・徳川光圀の八人。
□ 管理人がほかに加えるべき存在としては、天海と同様に家康側近だった林羅山ぐらいでしょう。
いまだ江戸の盛期には至らないので、かりにコレクターを官系と民系に分けるなら、やはり前者の色合いが強く、その点では前代までの傾向を引き継いでいます。しかしその最後の時代といえるかもしれません。
反町が江戸期で最も重要な蔵書家とした5代藩主前田綱紀(1643-1724)の尊経閣は和書2万種あまり、漢籍は1万7千種、その他文献が5600種、多くが絶版および極めて貴重な書籍です。
ちなみに、家康が3000(これは晩年の駿府時代に残したものか?)、脇坂八雲軒は数千、松平忠房は島原図書館に残った分で1万余。また天海は1万1400、林羅山が数万といわれます。羅山は晩年火災で蔵書を失いそのショックなのか時をおかずに亡くなりましたが、林家の私塾は事実上の最高学府だけあって書は増え続け、官学化された林述斎の時(寛政九年 1797)には、江戸では紅葉山文庫に並ぶ存在となっていました。
《トピック 大名たちの蔵書》
上で挙げられたのは、公家の親子と家康側近の2人をのぞけば、皆大名です。大名の蔵書は個人の収集といえるのか、国(藩)の蔵書というべきか迷うところがあり、また代々継承されていくので個人趣味嗜好の色も薄くなってゆきます。蒐集の取捨選択をを専門の者が行うことも通例で、前田家の場合は初期に木下順庵がその任に当ったことはよく知られています。海外でも事情は同様。メディチ家司書マリアベーキ、マザランの司書ガブリエル・ノーデ、二代目スペンサー伯におけるトマス・ディブティンなどは書誌学史上では有名な存在ですね。
とはいっても、本好きな殿様、歴代の蒐集活動に特に大きな影響を与えた殿様がいることも一方事実で、蔵書家の星として前田綱起を反町が挙げたことは、反町さんの定義自体はあいまいで前田と屋代・浅野を並べることにかなりの無理はあるものの、理解できないこともありません。大名蔵書は個人のコレクションというより、藩の蔵書という性格が強いですが、その基礎を作り最大の蒐集活動を行った人物か存在することも往々です。で、そうしタイプの最大の例として、前田綱起=加賀百万石が存在するわけです。ただそれは単なる集書活動にとどまらず、諸藩から様々な異本を借り受け、校訂して正しい版を作る、といった名君による一種の文化事業なんですね。(その反面、「前田は本を返さない」ことで悪評がありました)
以下各藩を覧ていきましょう。
まず大名による蔵書で、世に「三大」と冠せられたのは、前述した加賀の前田綱起のほか、幕府将軍家、豊後の毛利高標の三つ。
□ 幕府紅葉山文庫はその数12万3000。末期には16万あったとも言われます。加賀前田の尊経閣では前田綱起がコレクションの基礎を築きましたが、幕府紅葉山文庫の場合それにあたるのが八代吉宗で、この時代の拡充は特記されるべきでしょう。国学の隆盛と期を同じくし、またそれに刺激を与えています。三上参次の「江戸時代史」によると、書物奉行に下田幸太夫を任じて国書の充実を図り、吉宗自身が一条兼良の「桃華蘂葉」を校正したなんて話があるから半端ではないですね。ほかにも歴代の書物奉行(常時四人ほど)には著名な人士が多数です。
□ 豊後毛利高標の佐伯文庫はおよそ8万。しかし2万巻を幕府に献上しています。石高わずか2万石で徳川や前田に並ぶ質の高い本を集めた高標は学者大名と呼ばれ、この蒐集もほとんど彼一代で形成されたものです。その内容は漢籍中心で経・史・子・集は勿論、ト占・農・医と広く各部類にわたり、宋・元・明版などの古い版も多く、洋書も相当あったといいます。それは明治期に清の大蔵書家方功恵の使いが中国で消えた孤本を買いに来た程でした。
おしなべて大藩の書庫は充実しているようで、肥後細川藩は漢籍だけで10万あったとされます。
尾張徳川家も家康から分与された3000冊が、幕末では5万に膨らんでいました。(ただその三分の一が明治期に流出)
徳島藩25万石の蜂須賀家も書の蒐集では名高く、最盛期は江戸屋敷に5万から6万あったとの事。
(そうした反面で、外様では前田に次ぐ石高の仙台の伊達文庫には4170しかありませんでした。)
他にも、毛利高標と並んで学者三大名と称された市橋長明・池田定常の二人も少禄ながら質の高い蒐集をしていました。長昭は宋版・元版の漢籍を数多く所蔵しそこから厳選した30部を湯島聖堂に献納しています(うち21部が重文です)。定常も、佐藤一斎に学ぶこと40年に及び自身でも多くの著述をなしましたが、江戸大火の折、膨大な蔵書と原稿の大半を失っています。
ちなみに幕府の紅葉山文庫は特に吉宗時代に顕著なのですが、前田の尊経閣同様、明らかに集書・校正事業です。買い集めるだけでなく、公家・大名・寺社・儒者に借り受けて写しをとり、諸本を比較し校正する。それは古文書から古器物に至るまでコピーを作るほど徹底している、しかもそれを幕府の権力づくでやるわけです。ある意味これはドイツでやってたモヌメンタ=ゲルマニアエ=ヒストリエアカに近い性質のものかもしれません。一条家では「関東よりの借書の依頼は全く迷惑なり」とか日記にしたためていました。
この文庫は維新後二つに分かれ、宮内省と内閣文庫へ。現在の宮内庁書陵部は欽定憲法の時代ならいわゆる皇室蔵書に当たるんでしょうか? こちらも歴代の図書頭には著名な人が多く、田中光顕・森鴎外など御本人自身がこのブログで名前を挙げられているほどの蔵書家もいます。
[6] 鏡像フーガ2 蒐集のはじめ
まず引用。
「日本の蒐書の歴史は、古く八世紀のあの芸亭文庫主にまで遡ります。平安朝時代の初めに中国へ渡った、弘法大師をはじめとするかなりの数の僧たちが、彼の地で多くの書物を蒐集して持ち帰った事は、当時の請来目録の類によって窺う事ができます。その以外では、平安末期の藤原信西・藤原頼長の名が知られます。以後には、鎌倉時代では、明恵上人・藤原定家・北条実時及びその一族等々、足利時代では一条兼良・上杉憲実・同憲房等の名がすぐ記憶に浮かびます」
〔Ⅰ 奈良末期 八世紀〕
■石上宅嗣(729-781)による奈良時代の芸亭文庫から、反町が記述を始めているのは概ね妥当といえる。漢籍と仏典の蒐集で、自宅を寺に改築した際文庫として一般に公開したため日本最初の図書館とも言われ、宅嗣死後の9世紀初頭まで存在していたとされる。
〔Ⅱ 平安初期 九世紀〕
□ これに続くのが、大学別当だった和気広世の弘文院でやはり私邸を改築し数千巻の書を収めた。反町弘文荘というのはこの弘文院からとったのではと思っていたが、反町は和気広世には触れていない。図書収集というより大学として解釈したのかもしれない。
ちなみにこの時代に本が一番多くあったのは、やはり宮中の書庫である。日本国見在書目録には1579部、16790巻を数え、現在の中国本国で見当たらない書物の名前も記されている。
寺社でも、当然仏典に限られるが、高野山には6000巻あったと伝えられるし、延暦寺は山王院の蔵書目録だけで1090点、2959巻を数えた。
〔Ⅲ 平安中期 十世紀~十一世紀〕
□ 反町にはない記述が続くが、漢籍に関しては従来から菅原・大江の2家による独占といってよい状態だった。それを破ったのが藤原道長で、多分11世紀初頭最大の個人蒐集家。所蔵は2000巻を数える。
一方、大江匡房は大江家に伝わる典籍を江家文庫にまとめて収蔵するが、火事で全焼してしまう(1153年)。
〔Ⅳ 平安初期 十二世紀~〕
■ 反町が挙げたように、平安末期の双璧といえば藤原頼長と藤原信西。
頼長と信西は、当代屈指の教養人であったにもかかわらず、乱に絡み、いずれも非業の最期を遂げているのが興味深い。
□ この二人にやや先立ち源師頼も多くの書物を集めていたが、師の大江匡房同様火災にあい数千巻が灰と化している。
〔Ⅴ 鎌倉初期 十三世紀前半〕
■ 鎌倉時代初期における双璧は、藤原定家と明恵。
当時の和歌の最高権威であった定家の場合、子孫が健在で冷泉家時雨文庫には彼のコレクションも残っている。
一方、複数の寺を渡り歩いた明恵のそれは高山寺時代のものであろうか?
〔Ⅵ 鎌倉中期 十三世紀後半~十四世紀〕
■ 上の二人に少し遅れて登場するのが北条実時であり、蒐集した和漢の書のための書庫を晩年に称名寺内に設立した「金沢文庫」は彼の死後も拡充され、孫の北条貞顕の頃には2万巻に達したというから、中世末期では最大の個人蒐集のひとつかもしれない。北条氏滅亡後も、称名寺や上杉氏など管理者を変えながら細々と継続した。もっとも蔵書の多くは後北条氏、徳川家康、前田綱起ら歴代の本好きに持ち出されている。
〔Ⅶ 室町中期 十五世紀〕
■ 室町時代から反町が挙げたのは、一条兼良と、上杉憲実・憲房父子。
この時期で文句なく最大の蔵書家といえるのが一条兼良であり、三万五千巻を数える。有職故実の大家にして和漢に通じ、仏僧を別にすれば室町期最大の学者。よく平安時代の大江匡房に比べられることが多い。
上杉憲実は前述の金沢文庫の管理者で、その中興の祖とされる。同時にその個人的蒐集は「足利文庫」の基礎をなし、この時代の二大文庫の両方にかかわっている。後世、東国のこの名高い二文庫の貴重書を豊臣秀次が京へ持ち去る。天守閣から通行人を火縄銃で狙い撃ちする様な殿様だけあって中々大胆な行動だが、のち家康が元に戻す。しかしその際欲しかった一部の書を自らの手元に置き、こちらも家康らしい行いである。
□ 近世初頭で挙げておくべき他に重要な存在といえば、大内政弘である。明貿易で富をなし、応仁の乱では山名の背後で黒幕的な動きをした大内一族だが、城下は戦乱の京を離れた公家が多く滞在し小京都と呼ばれる文化の中心になっていた。歴代の中でも特に政弘の集書は著しい。自身も和歌を2万種も残しており、旧知の公家に書写を依頼するなど、その山口殿中文庫は古今の典籍を集めてかなりの所蔵に達したという(「名だたる蔵書家、隠れた蔵書家」参考)
以上、古代末期から近世初頭まで駆け足で見てきましたが、この頁ではあまり問題は生じません。(江戸時代から蔵書家の数も増え煩瑣になります)
ひとつ感じるのは、日本という国が中世をとおして知的に高い水準にあったことです。その社会にどれだけ本があるかということは知の総量を示すものだからです。西欧中世末期で最大の蔵書家といわれるリチャード・ド・ベリー(14C)の所有数は1500冊ほどだし、時代を遡るともっと少なくなってきます。13世紀最も本の多かったソルボンヌ大学でも1000冊程度、10世紀のクリュニー修道院では570冊程度。(これは西洋中世が一種の情報飢餓状態にあったためで、古代ローマ期には何万クラスの蔵書家は存在します)
ただ、上に何巻何巻と書いたのは巻き物の数であり、冊数ではありません。冊数に直すとその数分の一になってしまうことに留意すべきです。
「日本の蒐書の歴史は、古く八世紀のあの芸亭文庫主にまで遡ります。平安朝時代の初めに中国へ渡った、弘法大師をはじめとするかなりの数の僧たちが、彼の地で多くの書物を蒐集して持ち帰った事は、当時の請来目録の類によって窺う事ができます。その以外では、平安末期の藤原信西・藤原頼長の名が知られます。以後には、鎌倉時代では、明恵上人・藤原定家・北条実時及びその一族等々、足利時代では一条兼良・上杉憲実・同憲房等の名がすぐ記憶に浮かびます」
〔Ⅰ 奈良末期 八世紀〕
■石上宅嗣(729-781)による奈良時代の芸亭文庫から、反町が記述を始めているのは概ね妥当といえる。漢籍と仏典の蒐集で、自宅を寺に改築した際文庫として一般に公開したため日本最初の図書館とも言われ、宅嗣死後の9世紀初頭まで存在していたとされる。
〔Ⅱ 平安初期 九世紀〕
□ これに続くのが、大学別当だった和気広世の弘文院でやはり私邸を改築し数千巻の書を収めた。反町弘文荘というのはこの弘文院からとったのではと思っていたが、反町は和気広世には触れていない。図書収集というより大学として解釈したのかもしれない。
ちなみにこの時代に本が一番多くあったのは、やはり宮中の書庫である。日本国見在書目録には1579部、16790巻を数え、現在の中国本国で見当たらない書物の名前も記されている。
寺社でも、当然仏典に限られるが、高野山には6000巻あったと伝えられるし、延暦寺は山王院の蔵書目録だけで1090点、2959巻を数えた。
〔Ⅲ 平安中期 十世紀~十一世紀〕
□ 反町にはない記述が続くが、漢籍に関しては従来から菅原・大江の2家による独占といってよい状態だった。それを破ったのが藤原道長で、多分11世紀初頭最大の個人蒐集家。所蔵は2000巻を数える。
一方、大江匡房は大江家に伝わる典籍を江家文庫にまとめて収蔵するが、火事で全焼してしまう(1153年)。
〔Ⅳ 平安初期 十二世紀~〕
■ 反町が挙げたように、平安末期の双璧といえば藤原頼長と藤原信西。
頼長と信西は、当代屈指の教養人であったにもかかわらず、乱に絡み、いずれも非業の最期を遂げているのが興味深い。
□ この二人にやや先立ち源師頼も多くの書物を集めていたが、師の大江匡房同様火災にあい数千巻が灰と化している。
〔Ⅴ 鎌倉初期 十三世紀前半〕
■ 鎌倉時代初期における双璧は、藤原定家と明恵。
当時の和歌の最高権威であった定家の場合、子孫が健在で冷泉家時雨文庫には彼のコレクションも残っている。
一方、複数の寺を渡り歩いた明恵のそれは高山寺時代のものであろうか?
〔Ⅵ 鎌倉中期 十三世紀後半~十四世紀〕
■ 上の二人に少し遅れて登場するのが北条実時であり、蒐集した和漢の書のための書庫を晩年に称名寺内に設立した「金沢文庫」は彼の死後も拡充され、孫の北条貞顕の頃には2万巻に達したというから、中世末期では最大の個人蒐集のひとつかもしれない。北条氏滅亡後も、称名寺や上杉氏など管理者を変えながら細々と継続した。もっとも蔵書の多くは後北条氏、徳川家康、前田綱起ら歴代の本好きに持ち出されている。
〔Ⅶ 室町中期 十五世紀〕
■ 室町時代から反町が挙げたのは、一条兼良と、上杉憲実・憲房父子。
この時期で文句なく最大の蔵書家といえるのが一条兼良であり、三万五千巻を数える。有職故実の大家にして和漢に通じ、仏僧を別にすれば室町期最大の学者。よく平安時代の大江匡房に比べられることが多い。
上杉憲実は前述の金沢文庫の管理者で、その中興の祖とされる。同時にその個人的蒐集は「足利文庫」の基礎をなし、この時代の二大文庫の両方にかかわっている。後世、東国のこの名高い二文庫の貴重書を豊臣秀次が京へ持ち去る。天守閣から通行人を火縄銃で狙い撃ちする様な殿様だけあって中々大胆な行動だが、のち家康が元に戻す。しかしその際欲しかった一部の書を自らの手元に置き、こちらも家康らしい行いである。
□ 近世初頭で挙げておくべき他に重要な存在といえば、大内政弘である。明貿易で富をなし、応仁の乱では山名の背後で黒幕的な動きをした大内一族だが、城下は戦乱の京を離れた公家が多く滞在し小京都と呼ばれる文化の中心になっていた。歴代の中でも特に政弘の集書は著しい。自身も和歌を2万種も残しており、旧知の公家に書写を依頼するなど、その山口殿中文庫は古今の典籍を集めてかなりの所蔵に達したという(「名だたる蔵書家、隠れた蔵書家」参考)
以上、古代末期から近世初頭まで駆け足で見てきましたが、この頁ではあまり問題は生じません。(江戸時代から蔵書家の数も増え煩瑣になります)
ひとつ感じるのは、日本という国が中世をとおして知的に高い水準にあったことです。その社会にどれだけ本があるかということは知の総量を示すものだからです。西欧中世末期で最大の蔵書家といわれるリチャード・ド・ベリー(14C)の所有数は1500冊ほどだし、時代を遡るともっと少なくなってきます。13世紀最も本の多かったソルボンヌ大学でも1000冊程度、10世紀のクリュニー修道院では570冊程度。(これは西洋中世が一種の情報飢餓状態にあったためで、古代ローマ期には何万クラスの蔵書家は存在します)
ただ、上に何巻何巻と書いたのは巻き物の数であり、冊数ではありません。冊数に直すとその数分の一になってしまうことに留意すべきです。
[5] 鏡像フーガ1
碩学の書いたものに補正を加えるなんて恐れ多いんですが、主題に選んだ反町さんの短い文章が特定の機会に書かれたものであるため、各時代の高名な蔵書家で触れられていない人がかなり多い点、また「蔵書家」「集書事業」などの概念規定が明確でないので前田に続くような大名コレクションで触れられてないものが多い点、またこれも概念規定の曖昧さなんですが、稀覯本専門の古書籍商としての興味から、江戸期以前は新刊書コレクターも珍籍コレクターも同列に扱ってる点など色々あって、ちょっと解説を加える必要がありそうなんです。さらにある程度以上のクラスの蔵書家になってくると、中山正善みたいに個人所有か図書館の所有かなんて問題も出てきます。
それと、触れられたたくさんの蔵書家たちの名前に関しても、全くご存じない方がいらっしゃるかもしれないので簡単な説明も必要かと。
さて、以上のことを、各時代を下りながら、全部ごっちゃにやっていきます。ここからがこのブログの本番です!
世に広く知られるような蔵書家には、一般に二つの類型があると思います。それは「教養ある君主」タイプと、それとは真逆に「資金力のある学者・文化人」タイプ。
乗った車が通れば道ばたの民衆がおじきをし、巨大な宗教施設がいくつもある天理市では事実上の君主同然だった中山正善、安田財閥当主の二代安田善次郎なんかは前者の典型です。加賀百万石の藩主の前田綱起になると文字通りの君主以外の何者でもない。外国の例ではジョージ三世なんかがそうだし、JPモルガンもこのカテゴリーに入ります。
一方で、「資金力のある学者・文化人」タイプでは、ベストセラー作家の井上ひさしや司馬遼太郎がおり、東大教授のサラリー以外に岩崎や久原からの援助を受けていた和田維四郎、日経新聞社長とはいってもサラリーマン社長の小汀利得などがすぐ思い浮かびます。ヨーロッパだったら、ユダヤ系金融一族に生まれながら相続権の放棄と引き換えに巨額の年金を受け取りそれを蒐集に費やしたアビ・ヴァールブルクなどがその典型になるんでしょうか。
別の分け方では、先程来述べてきた「稀覯本の収集家」と、新刊書を買うような人、つまりは「雑本コレクター」でこちらは自分の情報環境を整える事が目的の人たちです。
当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、前者は美術コレクターに近い面があり、「教養ある君主タイプ」に多い。集書事業というか、一種の文化事業に近いケースさえあります。
逆に、後者は「資金力のある学者・文化人」が中心です。
「稀覯本の収集」では和田とか小汀とか蘇峰とか凄い人もいるんだけど、やはり、最後に勝つのは、前田とか中山のような「王様」です。海外の例でも、英米系で最大の稀覯本のコレクションといえば恐らくリチャード・ヒーバーのそれでしょうが、これは彼の死後、競売で美味しいところを全部ウィリアム・ミラーに持っていかれ、最終的にはモルガン財閥の総帥JPモルガンの所有に落ち着くことになります。
でも、本の蒐集の場合は、美術コレクターに比べればまだましなんです。そんな金持ちでもない人が、何でこの人はこんなにたくさん本持ってるんだろうってケースがよくあります。それが世に知られた美術コレクターの場合になると、絵画であれ骨董であれ、もう王様と億万長者の名前しか出てきません。(例外的に、フランス印象派絵画の勃興期にネラトンやショケといった高級官僚たちがその眼力で主要な作家の重要作をコレクションしていたケースがあり、この部分はアンコールピースで詳しくやります)
だから蔵書家の話は面白い。で、次回からは反町の記述にのっとりながら、彼が触れなかった大物たちの話題も含め、「稀覯本収集家」「自らの情報環境を整える事が目的」の両タイプの対比を軸に、あまり堅苦しくなく話を進めてゆきます。
それでは「反町による主題」で挙げられていた蔵書家を■で、ブログ側が追加した蔵書家を□で表していきます。
それと、触れられたたくさんの蔵書家たちの名前に関しても、全くご存じない方がいらっしゃるかもしれないので簡単な説明も必要かと。
さて、以上のことを、各時代を下りながら、全部ごっちゃにやっていきます。ここからがこのブログの本番です!
世に広く知られるような蔵書家には、一般に二つの類型があると思います。それは「教養ある君主」タイプと、それとは真逆に「資金力のある学者・文化人」タイプ。
乗った車が通れば道ばたの民衆がおじきをし、巨大な宗教施設がいくつもある天理市では事実上の君主同然だった中山正善、安田財閥当主の二代安田善次郎なんかは前者の典型です。加賀百万石の藩主の前田綱起になると文字通りの君主以外の何者でもない。外国の例ではジョージ三世なんかがそうだし、JPモルガンもこのカテゴリーに入ります。
一方で、「資金力のある学者・文化人」タイプでは、ベストセラー作家の井上ひさしや司馬遼太郎がおり、東大教授のサラリー以外に岩崎や久原からの援助を受けていた和田維四郎、日経新聞社長とはいってもサラリーマン社長の小汀利得などがすぐ思い浮かびます。ヨーロッパだったら、ユダヤ系金融一族に生まれながら相続権の放棄と引き換えに巨額の年金を受け取りそれを蒐集に費やしたアビ・ヴァールブルクなどがその典型になるんでしょうか。
別の分け方では、先程来述べてきた「稀覯本の収集家」と、新刊書を買うような人、つまりは「雑本コレクター」でこちらは自分の情報環境を整える事が目的の人たちです。
当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、前者は美術コレクターに近い面があり、「教養ある君主タイプ」に多い。集書事業というか、一種の文化事業に近いケースさえあります。
逆に、後者は「資金力のある学者・文化人」が中心です。
「稀覯本の収集」では和田とか小汀とか蘇峰とか凄い人もいるんだけど、やはり、最後に勝つのは、前田とか中山のような「王様」です。海外の例でも、英米系で最大の稀覯本のコレクションといえば恐らくリチャード・ヒーバーのそれでしょうが、これは彼の死後、競売で美味しいところを全部ウィリアム・ミラーに持っていかれ、最終的にはモルガン財閥の総帥JPモルガンの所有に落ち着くことになります。
でも、本の蒐集の場合は、美術コレクターに比べればまだましなんです。そんな金持ちでもない人が、何でこの人はこんなにたくさん本持ってるんだろうってケースがよくあります。それが世に知られた美術コレクターの場合になると、絵画であれ骨董であれ、もう王様と億万長者の名前しか出てきません。(例外的に、フランス印象派絵画の勃興期にネラトンやショケといった高級官僚たちがその眼力で主要な作家の重要作をコレクションしていたケースがあり、この部分はアンコールピースで詳しくやります)
だから蔵書家の話は面白い。で、次回からは反町の記述にのっとりながら、彼が触れなかった大物たちの話題も含め、「稀覯本収集家」「自らの情報環境を整える事が目的」の両タイプの対比を軸に、あまり堅苦しくなく話を進めてゆきます。
それでは「反町による主題」で挙げられていた蔵書家を■で、ブログ側が追加した蔵書家を□で表していきます。
[4] 反町茂雄によるテーマ その4
[4] 反町茂雄によるテーマ その4
昭和42年に中山正善が世を去り、その五年後には小汀利得も後を追います。
「業界の賑わいは四十年代に入って急速に下降に向かいます。珍書の出品が少なく、あたかも天理と時を等しくして、一段落を迎えたかのような形勢であります」
昭和20年代に市場へ大量流出した稀書珍籍が、30年代にその再配置を終えた格好であって、稀覯本の収集家はその後も後を絶たないものの、スケール感においてこの時期に匹敵する人は以後出てきません。
例えば司馬遼太郎のように、豊富な財力を駆使して珍籍を買いあさった人はいるけれども、彼の場合は小説の資料としてであり、書いた後はまた売り払っています。つまり稀書のコレクターとは違うわけです。(そのため司馬の異様な博識が一体どの書物から導かれたものか、研究が困難なのは有名ですね)。谷沢永一談「司馬さんは足跡を残さない」
洋書では、荒俣宏・鹿島茂などその限りではないようですが、「反町茂雄による主題の提示」からは外れるので、この項はひとまずこれで終えましょう。
昭和42年に中山正善が世を去り、その五年後には小汀利得も後を追います。
「業界の賑わいは四十年代に入って急速に下降に向かいます。珍書の出品が少なく、あたかも天理と時を等しくして、一段落を迎えたかのような形勢であります」
昭和20年代に市場へ大量流出した稀書珍籍が、30年代にその再配置を終えた格好であって、稀覯本の収集家はその後も後を絶たないものの、スケール感においてこの時期に匹敵する人は以後出てきません。
例えば司馬遼太郎のように、豊富な財力を駆使して珍籍を買いあさった人はいるけれども、彼の場合は小説の資料としてであり、書いた後はまた売り払っています。つまり稀書のコレクターとは違うわけです。(そのため司馬の異様な博識が一体どの書物から導かれたものか、研究が困難なのは有名ですね)。谷沢永一談「司馬さんは足跡を残さない」
洋書では、荒俣宏・鹿島茂などその限りではないようですが、「反町茂雄による主題の提示」からは外れるので、この項はひとまずこれで終えましょう。
[3] 反町茂雄によるテーマ その3
以上の文章は、お得意さんを称える機会に執筆されたもので、おべんちゃら調が少々鼻につかないこともないのですが、中山正善(天理図書館)が日本における最大の稀覯本の蒐集家であったことは争いのないところです。
理由は、彼が蒐集した時代が、終戦後に華族が没落して千年に渡り蓄積されたそのコレクションが市場に放出された我が国の古書籍取引史上の黄金期にあたっていた事でしょう。そして華族が没落し財閥が解体されたこの時代に最もお金を持っていたのが、彼のような新興宗教のトップだったという事なんでしょう。
前に引いた文章がちょうどこの時期の直前で終わってるので、この黄金期以後を扱った別の記述(「天理=ザ・チープ・ライブラリー」)を参考に話を進めてみます (こちらも「天理図書館の善本稀書」所収)。
日本中でみんながお金がなかったこの時期、天理に匹敵する買い手は先にも出てきたタイムズ特派員の英人フランク・ホーレーでした。「善本と見れば種類を問わず、値をいとわず、即座にいくらでも買収するという姿勢」。当時の日本における悲劇的な善本価格の低落を理解していて、その認識の下に徹底して買いに走ったコレクターですが、戦前にはスパイ容疑でつかまっていてその際、蔵書も没収。一時慶応大学に保管された後、終戦後返還されましたが、足りないものが多く「慶応大学に盗まれた」と言っていたそうです。この人に関しては後の『主題補正』でも詳しくやります。
当時の古書業界で「売り手」の筆頭だった反町の認識では、中山正善とこのF・ホーレーに、小汀利得(日経新聞社長)と岡田真を加えた四人が、「買い手」としての「四強」だったとの事です。
その他に挙げている名前としては、池田亀鑑、吉田幸一、前田善子、梅沢彦太郎、戸川浜男、横山重、岡田利兵衛などがあります。
日本の高度成長とともに稀書の価格も上がり、逆に、亡くなった所有者のコレクションは多くが大学や図書館の文庫に入るようになったため、重要なものが市場にも出回らなくなり、黄金時代が終焉します。
「三十年代は、天理が最大の蒐集力を発揮された期間に相当致します。前代に強力なライバルであったフランク・ホーレー文庫は崩壊し了り、岡田文庫は縮小しました。小汀文庫は以前とほぼ同様な意力と経済力とを持続しましたが、別して増加は見られない様でした」
「天理は殆ど無制限に拡がるかに見えました。出発の際は宗教を中心に、民俗・文学等の一部に限り、やがて江戸文学方面に逐次進出しました。その後は拡大に拡大を重ねて、この時期には、純粋な自然科学をのぞいて、東西の人文科学のすべての部門にわたって、善本・良書の集儲に向かう状勢でした」
理由は、彼が蒐集した時代が、終戦後に華族が没落して千年に渡り蓄積されたそのコレクションが市場に放出された我が国の古書籍取引史上の黄金期にあたっていた事でしょう。そして華族が没落し財閥が解体されたこの時代に最もお金を持っていたのが、彼のような新興宗教のトップだったという事なんでしょう。
前に引いた文章がちょうどこの時期の直前で終わってるので、この黄金期以後を扱った別の記述(「天理=ザ・チープ・ライブラリー」)を参考に話を進めてみます (こちらも「天理図書館の善本稀書」所収)。
日本中でみんながお金がなかったこの時期、天理に匹敵する買い手は先にも出てきたタイムズ特派員の英人フランク・ホーレーでした。「善本と見れば種類を問わず、値をいとわず、即座にいくらでも買収するという姿勢」。当時の日本における悲劇的な善本価格の低落を理解していて、その認識の下に徹底して買いに走ったコレクターですが、戦前にはスパイ容疑でつかまっていてその際、蔵書も没収。一時慶応大学に保管された後、終戦後返還されましたが、足りないものが多く「慶応大学に盗まれた」と言っていたそうです。この人に関しては後の『主題補正』でも詳しくやります。
当時の古書業界で「売り手」の筆頭だった反町の認識では、中山正善とこのF・ホーレーに、小汀利得(日経新聞社長)と岡田真を加えた四人が、「買い手」としての「四強」だったとの事です。
その他に挙げている名前としては、池田亀鑑、吉田幸一、前田善子、梅沢彦太郎、戸川浜男、横山重、岡田利兵衛などがあります。
日本の高度成長とともに稀書の価格も上がり、逆に、亡くなった所有者のコレクションは多くが大学や図書館の文庫に入るようになったため、重要なものが市場にも出回らなくなり、黄金時代が終焉します。
「三十年代は、天理が最大の蒐集力を発揮された期間に相当致します。前代に強力なライバルであったフランク・ホーレー文庫は崩壊し了り、岡田文庫は縮小しました。小汀文庫は以前とほぼ同様な意力と経済力とを持続しましたが、別して増加は見られない様でした」
「天理は殆ど無制限に拡がるかに見えました。出発の際は宗教を中心に、民俗・文学等の一部に限り、やがて江戸文学方面に逐次進出しました。その後は拡大に拡大を重ねて、この時期には、純粋な自然科学をのぞいて、東西の人文科学のすべての部門にわたって、善本・良書の集儲に向かう状勢でした」
[2] 反町茂雄によるテーマ その2
[2] 反町茂雄によるテーマ その2
前掲の引用では、反町は古書籍商としての自分や、最大の蒐集家であった中山正善の活躍した黄金期(昭和20~30年代)に至るまでの時代を回顧しています。
おおざっぱにまとめると、江戸時代最大の存在として加賀百万石の藩主前田綱紀を(またそれに次ぐものとして屋代弘賢・浅野梅堂を)挙げ、近代になってから、明治大正期から昭和の前期までで最大の存在として安田財閥の二代目当主安田善次郎と和田維四郎を(それに次ぐものとして徳富蘇峰とFホーレーを)を挙げています。この文章自体は、この三人と反町自身の最大の顧客であった中山正善のコレクション内容の比較を試みる構成になっています。
前田綱紀、二代目安田善次郎、和田維四郎、中山正善といった日本の稀書蒐集における4巨人のコレクション内容を比較したこの部分は、もうこの人にしか書けない文章で大変興味深いのですが、長くなるので割愛します(「天理図書館の善本稀書」所収)。ただ素通りするのもあれなので、ちょっとエッセンスを抜き出してみます。
Ⅰ 前田vs中山
まず尊経閣の蒐集は国書と漢書に二分される。国書では同時代の大名(徳川光圀、脇坂八雲軒、松平忠房)のコレクションが写本が多いのに比して原本が多く質が高い。
特に物語・和歌・日記が秀抜。然し物語では天理(中山)のスケールには及ばない。歌書では私家集・歌合の古写本では質において天理を凌ぐが、連歌では及ばない。
松雲公が最も力を入れたのは広義の史書だが、多彩豊富さでは天理に及ばない。ただ古記録・古文書では前田が上回る。
神道・仏教関係では天理が上だが、儀式典礼の古書では前田の勝ち。
平安鎌倉から五山版に至る古版本では天理が圧倒的。江戸時代の版本、名家の自筆本でも天理が圧倒的(近世文学には松雲公はほとんど興味がなかった模様)。
国書については以上のとおりだが、漢書では天理は前田に到底及ばない。しかし天理にある膨大な洋書が尊経閣には存在しないのでそれで埋め合わせがつく。
Ⅱ 安田vs中山
安田の蒐集は前半部が関東大震災で消滅したので残った目録の類から較量。前半の蒐集は江戸時代のものが多く、後半はそれ以前のものが中心。
全体として近世文学に特に強い。
後半には漢籍や古写経に興味が進み、特に古写経では天理も及ばない。
豊富な財力を背景に多くの分野を狩猟したが、古文書類には進まなかった。
Ⅲ 和田vs中山
スケール・質・範囲の三点で中山正善に匹敵するのが和田維四郎。
和田のコレクションは興味に従って集めていくというより、最初から科学者の視点でハッキリした意図の下で取捨選択して蒐集しているのが珍しい。原則和書のみで、一部例外を除いて漢書・洋書はない。明治文学もない。
古版本が特に目立つが、古写本の質も秀抜。すべて鑑蒐者の見識を示すもので、和田は中山以前の最高の蒐集家だと評価(反町自身、和田の「訪書余禄」を自費で再版するほど傾倒している)。
Ⅳ
中山正善の蒐集は四者の中でもスケールは最大で数量では図抜けている。総体的に、質の面でも遜色はない。
古写本では前田、和田に勝るとも劣らない。
古版本の質量では、和田、安田に拮抗する。江戸期版本は、安田、和田を抜く。
古写経では安田、和田には及ばず。
古文書でも前田に及ばない。
名家の自筆本でも、特に江戸期のものは安田のそれを凌ぎ、空前絶後。
明治・大正・昭和の稀書珍籍や、洋書では、他の3コレクションはほとんど収集がないので比較にならない。
前掲の引用では、反町は古書籍商としての自分や、最大の蒐集家であった中山正善の活躍した黄金期(昭和20~30年代)に至るまでの時代を回顧しています。
おおざっぱにまとめると、江戸時代最大の存在として加賀百万石の藩主前田綱紀を(またそれに次ぐものとして屋代弘賢・浅野梅堂を)挙げ、近代になってから、明治大正期から昭和の前期までで最大の存在として安田財閥の二代目当主安田善次郎と和田維四郎を(それに次ぐものとして徳富蘇峰とFホーレーを)を挙げています。この文章自体は、この三人と反町自身の最大の顧客であった中山正善のコレクション内容の比較を試みる構成になっています。
前田綱紀、二代目安田善次郎、和田維四郎、中山正善といった日本の稀書蒐集における4巨人のコレクション内容を比較したこの部分は、もうこの人にしか書けない文章で大変興味深いのですが、長くなるので割愛します(「天理図書館の善本稀書」所収)。ただ素通りするのもあれなので、ちょっとエッセンスを抜き出してみます。
Ⅰ 前田vs中山
まず尊経閣の蒐集は国書と漢書に二分される。国書では同時代の大名(徳川光圀、脇坂八雲軒、松平忠房)のコレクションが写本が多いのに比して原本が多く質が高い。
特に物語・和歌・日記が秀抜。然し物語では天理(中山)のスケールには及ばない。歌書では私家集・歌合の古写本では質において天理を凌ぐが、連歌では及ばない。
松雲公が最も力を入れたのは広義の史書だが、多彩豊富さでは天理に及ばない。ただ古記録・古文書では前田が上回る。
神道・仏教関係では天理が上だが、儀式典礼の古書では前田の勝ち。
平安鎌倉から五山版に至る古版本では天理が圧倒的。江戸時代の版本、名家の自筆本でも天理が圧倒的(近世文学には松雲公はほとんど興味がなかった模様)。
国書については以上のとおりだが、漢書では天理は前田に到底及ばない。しかし天理にある膨大な洋書が尊経閣には存在しないのでそれで埋め合わせがつく。
Ⅱ 安田vs中山
安田の蒐集は前半部が関東大震災で消滅したので残った目録の類から較量。前半の蒐集は江戸時代のものが多く、後半はそれ以前のものが中心。
全体として近世文学に特に強い。
後半には漢籍や古写経に興味が進み、特に古写経では天理も及ばない。
豊富な財力を背景に多くの分野を狩猟したが、古文書類には進まなかった。
Ⅲ 和田vs中山
スケール・質・範囲の三点で中山正善に匹敵するのが和田維四郎。
和田のコレクションは興味に従って集めていくというより、最初から科学者の視点でハッキリした意図の下で取捨選択して蒐集しているのが珍しい。原則和書のみで、一部例外を除いて漢書・洋書はない。明治文学もない。
古版本が特に目立つが、古写本の質も秀抜。すべて鑑蒐者の見識を示すもので、和田は中山以前の最高の蒐集家だと評価(反町自身、和田の「訪書余禄」を自費で再版するほど傾倒している)。
Ⅳ
中山正善の蒐集は四者の中でもスケールは最大で数量では図抜けている。総体的に、質の面でも遜色はない。
古写本では前田、和田に勝るとも劣らない。
古版本の質量では、和田、安田に拮抗する。江戸期版本は、安田、和田を抜く。
古写経では安田、和田には及ばず。
古文書でも前田に及ばない。
名家の自筆本でも、特に江戸期のものは安田のそれを凌ぎ、空前絶後。
明治・大正・昭和の稀書珍籍や、洋書では、他の3コレクションはほとんど収集がないので比較にならない。
[1] 反町茂雄によるテーマ その1
[1] 反町茂雄によるテーマ その1
戦後を代表する古書籍商とされる反町茂雄に「蒐集家としての中山正善真柱」という一文があり、ここでは8世紀から現代までの蔵書家を振返っています。 短い文章でここまで包括的なものは他に読んだ事がないので、これを叩き台にさせてもらって始めることにします。以下引用です。
「日本の蒐書の歴史は、古く八世紀のあの芸亭文庫主にまで遡ります。平安朝時代の初めに中国へ渡った、弘法大師をはじめとするかなりの数の僧たちが、彼の地で多くの書物を蒐集して持ち帰った事は、当時の請来目録の類によって窺う事ができます。その以外では、平安末期の藤原信西・藤原頼長の名が知られます。以後には、鎌倉時代では、明恵上人・藤原定家・北条実時及びその一族等々、足利時代では一条兼良・上杉憲実・同憲房等の名がすぐ記憶に浮かびます。江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起(松雲公)・徳川光圀から、中期以降では松平定信・水野忠央・屋代弘賢・狩谷?斎・塙保己一・新見正路・浅野梅堂等々。更に大田南畝・馬琴・種彦・豊芥子に至るまで、その数は相当に多くあります。就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう。 明治以後には、善本の蒐集家の数は一段と増加致します。青木信寅・黒川家三代・竹添井々・田中光顕・井上頼圀・田中勘兵衛・神田香厳・富岡鉄斎・平出氏三代・大野酒竹・徳富蘇峰・和田維四郎・市島春城・二代目安田善次郎・加賀豊三郎・渡辺 霞亭・池田天鈞居・松井簡治・佐佐木信綱・石井光雄・高木利太・大島景雅・守屋高蔵等々、みな錚々たるコレクターです。外人ではE・サトー、B・チェンバレン、F・ホーレーは、それぞれに立派な蒐集家で、質に於いても優れて居ります。これらのうちで、稀書珍籍の蒐集に於て、質と量を見合わせて、最も見るべきは、私見によれば、大震災の前後を併せた安田善次郎さんと、和田雲村翁で、すぐこれに次ぐは、徳富氏成簀堂文庫でしょう。最盛期のホーレー文庫(昭和二十七、八年頃の)は、或いは直ちに成簀堂の後を追う者かも知れません。ここでは安田氏と和田氏を選び採って、これに先の前田家尊経閣の集を加え、これらの一々と天理の蒐集を試みる事によって、中山正善真柱の位置を考量したいと思います。」
戦後を代表する古書籍商とされる反町茂雄に「蒐集家としての中山正善真柱」という一文があり、ここでは8世紀から現代までの蔵書家を振返っています。 短い文章でここまで包括的なものは他に読んだ事がないので、これを叩き台にさせてもらって始めることにします。以下引用です。
「日本の蒐書の歴史は、古く八世紀のあの芸亭文庫主にまで遡ります。平安朝時代の初めに中国へ渡った、弘法大師をはじめとするかなりの数の僧たちが、彼の地で多くの書物を蒐集して持ち帰った事は、当時の請来目録の類によって窺う事ができます。その以外では、平安末期の藤原信西・藤原頼長の名が知られます。以後には、鎌倉時代では、明恵上人・藤原定家・北条実時及びその一族等々、足利時代では一条兼良・上杉憲実・同憲房等の名がすぐ記憶に浮かびます。江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起(松雲公)・徳川光圀から、中期以降では松平定信・水野忠央・屋代弘賢・狩谷?斎・塙保己一・新見正路・浅野梅堂等々。更に大田南畝・馬琴・種彦・豊芥子に至るまで、その数は相当に多くあります。就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう。 明治以後には、善本の蒐集家の数は一段と増加致します。青木信寅・黒川家三代・竹添井々・田中光顕・井上頼圀・田中勘兵衛・神田香厳・富岡鉄斎・平出氏三代・大野酒竹・徳富蘇峰・和田維四郎・市島春城・二代目安田善次郎・加賀豊三郎・渡辺 霞亭・池田天鈞居・松井簡治・佐佐木信綱・石井光雄・高木利太・大島景雅・守屋高蔵等々、みな錚々たるコレクターです。外人ではE・サトー、B・チェンバレン、F・ホーレーは、それぞれに立派な蒐集家で、質に於いても優れて居ります。これらのうちで、稀書珍籍の蒐集に於て、質と量を見合わせて、最も見るべきは、私見によれば、大震災の前後を併せた安田善次郎さんと、和田雲村翁で、すぐこれに次ぐは、徳富氏成簀堂文庫でしょう。最盛期のホーレー文庫(昭和二十七、八年頃の)は、或いは直ちに成簀堂の後を追う者かも知れません。ここでは安田氏と和田氏を選び採って、これに先の前田家尊経閣の集を加え、これらの一々と天理の蒐集を試みる事によって、中山正善真柱の位置を考量したいと思います。」
はじめに
はじめに
だいぶ前に井上ひさしが亡くなって、紅野敏郎、谷沢永一、渡辺昇一と続き、日本には蔵書家らしい人がほとんどいなくなってしまいました。今残ってる大物は、立花隆や松岡正剛のようなメディアとのタイアップ感がハンパない企画モノの蔵書家たちで、これが本来の意味での蔵書家と言えるのかなと疑問に思ってる人も多いでしょう。
中山正善や小汀利得といった名だたる稀覯本の収集家が相次いで世を去った1970年前後も、後に残ってるのは雑本のコレクターばかりといわれたもんですが、今現在はさらに絶望的な感じがします。紙の本というメディア自体がオワコンである事情もそれに拍車をかけています。
で、古今東西の蔵書家ないしはそれにまつわる常識的な知識をわかりやすく総覧したサイトも本も見当たらないので、ちゃんとしたものができるまでアフィリサイトをかねて試作してみましょう。(医療なんかでお金が要りそうなので本代ぐらいまかなえれば・・・)
神田古書街の天皇といわれた反町茂雄に、日本の蔵書家たちをかんたんに振り返った文章があり、このサイトでもそれを叩き台にして話を進めてゆきます。といっても書誌学者でもなし、古書籍商でもなし、ろくな知識もない者です。反町のように個々の蔵書家の中身まで精細に把握しているわけでもないので、誰々は何万何万言ってるだけになるかもしれません。
一応 以下の構成で考えていますが、書いてるうちに変わるかもしれません
◇主題 反町茂雄によるテーマ
◇主題補正 鏡像フーガ
◇第一変奏 グロリエ,ド・トゥー,マザラン,コルベール 《欧州大陸の蔵書家たち》
◇第二変奏 三代ロクスバラ公、二代スペンサー伯,ヒーバー 《英国の蔵書家たち》
◇第三変奏 陸心源、瞿紹基、楊以増、丁兄弟 《清末の四大蔵書家》
◇第四変奏 モルガン,ハンチントン,フォルジャー 《20世紀アメリカの蔵書家たち》
◇第五変奏 現代日本の蔵書家たち
◇以下続く
◇終曲 漫画の蔵書家たち
◇主題回帰 反町茂雄によるテーマ
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