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2018年12月5日水曜日

[12] 鏡像フーガ8 すべては図書館の中へ


① この主題補正の項を終えるにあたって、問題点を振り返って再論してみます。

 MAEDA   
 3 大名たち の頁で大名蔵書(とくに前田尊経閣)の特質に触れたとき、これは個人の蒐集というよりも国家の事業であり、また方々から集められた異本の校正など、実質的には文化・学術事業に近いことを述べました。だから反町がやったように、前田を中山や和田と並べるのはおかしいのではと疑問も呈しました。
 しかし、そういう実質云々の話ではなくて、所有という観点からみると、これはあくまで大名の所有以外の何物でもありません。

 日本の封建制は非常に特殊です。例えば戦後GHQが農地改革を行ったとき、彼らは占領下のドイツで行ったプランをそのまま日本に当てはめました。これはプロイセンのユンカーを潰す事を目的としたプランだったわけですが、その単純な適用は当時のGHQの担当者が兵農分離以降の日本封建制の二重性を理解できていなかったことの現れでした。フランス革命で行われた領主権の廃止を目指しながら、それとは何か別のことをやってしまった。
 日本の藩主というのは西欧における「領主」とは異なって、支配地域への徴税権はあるけれども、所有権はない極めて「政府的な」存在でした。つまり土地の所有者は藩主とはまた別にいたわけです。(だから日本最大の百姓と言われた山形の本間家は下人2000人を所有しその収入は藩主を上回っていた)
 その半面で、藩自体は大名の「家」としての存在がすべてであり、最近の幕末ドラマでよくあるような、「拙者は土佐『藩士』でござる」というようなセリフは実際には殆ど聞かれず、「お点前はいずれの『ご家中』でござるか」「加賀の前田様の『家中の者』でござる」という風なやり取りが通常でした。政府自体が大名家そのものであり、そのシステム下にあるものすべてが大名の所有なわけです。
 前田綱起の蒐集が、性質としては極めて政府事業に近く、法的な所属としてあくまで大名家の所有であるという点は、この二重性を反映していたように思えます。このことは前田尊経閣のみならず、幕府紅葉山文庫にもいえ、形式的には将軍の個人的ライブラリーではありながら、書物奉行のもとに運営され、その巨大な蔵書は幕府要人や学者に開かれていた公的色彩の強いものでした。


 NAKAYAMA
 中山正善の場合は、その逆になります。彼が大学時代から行っていた個人的な蒐集を、自身が設立した天理図書館が引き継ぐわけですが、中山自身は図書館の館長でもないし、また図書館の所有者でもない。しかし実質的な最高意思決定者として購入の選択に関与し続けました。
 天理図書館はすでに1930年に設立されているので、それ以後の蒐集(つまり重要なもののほとんど)は中山個人による蒐集ではなく、会計上も税法上も天理図書館の蒐集になります(もっとも中山は学生時代から本の購入資金を教団の予算に掛け合っていたので、当初から厳密な意味での所有になっていたかは不明)。だからこの点からみると、中山を近代日本最大の書籍蒐集者とする見方はおかしいわけです。
 またもう一つ言うと、中山&天理図書館の収集活動の最盛期は文庫を丸ごと買うとかそんな感じなので、これはどう見ても図書館の蒐集方法です。数ある文庫買収の中でも、とくに伊藤仁斎家の蔵書・古文書を丸ごと購入した話は有名ですね。


 WADA
 一方、和田維四郎の場合も問題が出てきます。和田について反町茂雄はこう述べています。
 「古書の蒐集事業は主として自力によって賄われ、雲村文庫の富を形成しましたが、時には昵懇の岩崎久弥及び久原房之介の力を借りた様です」
 これとは異なり、岩崎と久原が和田をチーフとして古書を蒐集させたように書いている文章は多いです。例えば「和田先生は ~中略~ 多年親交のあった岩崎久弥男爵と久原房之介氏に説いて自分の推薦する図書を購入せられんことを以てし、両家ともこれを快諾されて大正年代の初期から両家の蒐集事業が起こったのでした」(石田幹之助)。
 おそらく実際の取引は多くは和田名義で行われたと思われるので、私はだいたいにおいて反町茂雄のほうが正しいと思うけれども、没後にコレクションが両家へ行くことは了承済みだったようで、その所有は極めて不安定です。たしか、近世初頭のイタリアの蔵書家ニッコロ・ニッコリとメディチ家の関係がこのパターンだったと思います。




② 一般人は本を蒐集するが財閥は蒐集者を蒐集する


 □ 岩崎久弥  兄家 (  東洋文庫  )
 □ 岩崎小弥太 弟家 ( 静嘉堂文庫 )


 ここで岩崎の名前が出てきましたが、通常、岩崎両家を最大の蔵書家とは言うことはありません。むしろ図書館のオーナーという位置づけです。しかし、その兄家の東洋文庫と、弟家の静嘉堂文庫は、有名文庫をどんどん購入しており、合わせれば質量ともに天理を揺るがしかねません。
 特に兄家(久弥)は上記にあるように和田維四郎の残した蒐集の和本の部分を受け取り、これを別に購入したモリソン文庫に合わせて「鬼に金棒」と言われました。これらはのちに東洋文庫として財団法人化され岩崎の個人所有を離れることになりますが、現在でも三菱系です。(このモリソン文庫にかんしては 6 外人たち でさらに詳しく解説してます) 
 また弟家(小弥太)の静嘉堂文庫も、清末四大蔵書家の陸心源の蔵書の一部(4万2千巻)を購入してこれを基本蔵書に置き、さらに重野安繹を収集主任として、和書では青木信寅・鈴木真年・宮島藤吉・田中頼庸・山田以文・色川三中・高橋残夢、漢書では中村宇吉・宮島藤吉・楢原陳政・小越幸介・竹添光鴻・島田重礼の蔵書を購入して、とどめは中村正直・木内重四郎・松井簡治・大槻如電・諸橋轍次などの文庫も吸い込んで、米のJPモルガンのそれを思わせる威容を誇っています。(この中にはこれまで名前を挙げてきた蔵書家も4,5人混じっていますね)
 中山正善の場合、天理図書館の収集活動が御本人の蒐集の延長上にあるので、世間からはすんなり同一とみなされるんですが、岩崎両家の場合は最初から「財閥が図書館を作った」みたいなイメージがあり、世間一般で言われる蔵書家とは別におくのが慣例です。
 ところが、じつは岩崎両家もそれそれの先代(弥太郎と弥之助)は古書マニアで頻繁に神田古書街に足を運んでたことがあり、静嘉堂文庫も父の弥之助の蔵書をもとに,小弥太が自邸の一角に開館したものなんです。そうなると静嘉堂文庫や東洋文庫を所有していた岩崎両家をどう位置づけるのかという問題が出てきます。
 たしかに両家の家長は収集の実務にはほとんどタッチしておらず、高度な知識を持つ専門家に任せていた。しかしそれは、反町をはじめとする書誌学者顔負けの取引業者や図書館長以下のスタッフの補佐を受けていた中山正善も同じことです。
 反町が挙げた最も重要な蔵書家の前田、和田、安田、中山のうち、安田を除くとほかの三人は実際には蔵書家といえるのかという点で、このようにいろいろと問題が起こってくるわけです。
 いずれにせよ、巨大すぎる蒐集は、その所有権者自体がファジーであるし、購入する書物を選択する当事者の権限もファジーだし、またその目的面でも自分のためのものなのか人のためのものなのかよくわからなくなってきます。
 自分が知識を蓄え世界を広げるためなのか、世のため人のための文化事業なのか、次項でのべる「没後に文庫化ごと寄付」という「蒐集の墓場」が日本でとくに横行した理由も、蒐者が徐々に後者の視点に侵されてきがちな一般的傾向なしに理解することはできないと思います。




③ すべては図書館の中に

 「西洋の古書店は懐が深い上に、たいていは地下書庫に目のくらむような珍本をたくさん所蔵している。神田の某洋古書店の店主によれば、そういう本屋は日本人に大事な本を売らないのだそうだ。
 『日本に出すと、戻ってこなくなるんですね。公共機関などに死蔵されて、その点、ヨーロッパかアメリカで売れば、持ち主が死んだとき相当の確率で市場に出回ってくる。本屋はまたそれで商売になるわけです』」(荒俣宏「ブックライフ自由自在」)


 日本の場合、戦前の理想主義的な社会奉仕の礼賛から戦後民主主義にかけて、「公共性」の過度の重視がインテリ層に浸透しており、もう一方で、自分の作りあげた宇宙を壊したくないというコレクター心理、その底に流れる密かなエゴイズムが潜在していて、皮肉な言い方をすれば、この相反する両者が「文庫ごと寄付」という一つの表現に結実したものと思われます。
 貴重な古書が図書館に蔵されるということは、まず書物の保存という観点から好ましいし、学術的にも専門的研究者が利用しやすい点で公益性に富んでいるため、真向反対する人は出てこないんでしょうが、書をめぐって人々の欲望や執念が交錯していた時代がすっかり過去のものになってしまうと、何か物足りない気もします。
 果たして、これが文化なのだろうかと。




【最後に】
④ 結局日本でだれが一番本を持っていたの?

 この頁は、「主題補正」の締めくくりなんですが、妙に理屈っぽくなってしまいました。(考えに未整理の部分があるので、おいおい書き直しや修正をしていきます)
 そこで最後に、わかりやすいテーマでこの頁を閉じましょう。「結局日本でだれが一番本を持っていたの?」
 要は、これまで反町茂雄が挙げた人、ブログ側で追加した人などのうちで誰が最大の蔵書家だったのか、それを暫定的に決めちゃってこの項を閉じることにします。



 まず、反町さんが質量ともに日本で特に重要な蔵書家としたのは以下の四人です。
 ■ 前田綱起
 ■ 安田善之助
 ■ 和田維四郎
 ■ 中山正善


 そして上記四人に続くセカンドランクとして挙げられたのがこの四人。
 ■ 屋代弘賢
 ■ 浅野梅堂
 ■ フランク・ホーレー
 ■ 徳富蘇峰



 これまでブログ側で追加した蔵書家のうちで、特に規模の大きな存在は次の通りです。
 □ 徳川宗家(紅葉山文庫)3 大名たち
 □ 林述斎(林家家塾)  3 大名たち         
 □ 小山田与清            4 江戸の蔵書家 蔵書家たちが交流を始める
 □ 狩野享吉              5 明治大正の蔵書家
 □ 徳川頼倫              5 明治大正の蔵書家
 □ 岩崎久弥・小弥太      8 すべては図書館の中に
 □ 九条家                7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)
 □ 近衛家                7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)
 □ 大宅壮一              7 昭和期の蔵書家(1970年頃まで)



 ブログではまだ取り上げてないけど、いずれ 現代の蔵書家 で取り上げる予定の、量的に最大規模のお二人
 □ 井上ひさし 現代の蔵書家12 20万越えの人たち 
 □ 谷沢永一  現代の蔵書家12 20万越えの人たち



 結論を先に言うと、それは皇室蔵書です。
 それは近衛家や九条家よりも古く(平安初期に宮中書庫が最大の蔵書量を誇っていたことは述べました)、明治期には幕府紅葉山文庫もその中に流れ込み、それ以降も図書頭の管理の下に大きな購入予算を持っていて、その後継機関である宮内庁書陵部は45万もの資料を保有。。稀書・珍籍などの豊富さでもおそらく飛びぬけています。
 これは個人蔵書の色彩は大名蔵書や公家蔵書以上に希薄だろうし、「それを言っちゃおしまいでしょう」とも言われるかもしれないんですが、とにかく「どれか一つ」と迫られれば皇室蔵書を挙げざるを得ないんです。
 ただ、やっぱり当たり前っちゃ当たり前の話ですね。後でアンコールピースの骨董コレクター篇で詳しくやりますが、たとえば骨董蒐集家にも、本における中山正善や前田綱起みたいな名実ともに最高最大とみなされる存在があります。それは益田孝という三井財閥の大番頭で茶人としても有名な人です。ところがある皇室関係の展覧会のパンフレットで、この益田を最大の骨董蒐集家とする表現があるんですが、それにはちゃんと「皇室と三井家をのぞけば」という但し書きがついてるんですね。まあ「そういうこと」のようで、長く続く王室がある国ならどこでも事情は同じかもしれません。



 そこで管理人権限で、ここでひとつ「蔵書家のベスト」を決めてみましょう。
 私は司馬遼太郎だと思います。残った冊数は6万ほどですが、昭和期後半で最大のベストセラー作家としての豊富な財力を駆使して、司馬ははるかにそれ以上の稀書を買い込んでいます。それは新作に取り掛かると、その関連の本が古書街から一斉に消えるという伝説を生んだぐらいの勢いでした。それで資料に使用した後はそれを売り払う。よって、文庫化&死蔵の道をたどらず、古書業界に還流してゆき、業界を枯渇させることはない。売る時と引き取る時で、古書店は2度儲かる。松本清張も同じパターンなんですが、古い資料を要する歴史小説の場合、求める本の金額の桁が違う。
 そしで専業の作家・著述家であるから、そこから吸収した知識はすべて著作として読者へと還元されることになる。紅野敏郎のように物凄い量の蔵書を持つ著述家であっても、一般の方がほとんど読んでないケースもありますが、司馬の場合は逆に、「これほど日本で読まれた作家もいない」。
 霞が関の官僚がもっとも読んだ作家と言われ、全国津々浦々の読書人に長年親しまれてきたこのひとほど、本というメディアに寄与した存在はないのではないか、と私は考えています。


 
 このブログは今、ネット接続がなく手持ちの書籍も参照できないところで書いていて、事実関係や引用部分を確かめられない事があり、誤りや思い違いも多いと思います。随時指摘していただければありがたいです。 こちら

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