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2018年12月5日水曜日

[9] 鏡像フーガ5 明治大正期の蔵書家

以下引用
「明治以後には、善本の蒐集家の数は一段と増加致します。青木信寅・黒川家三代・竹添井々・田中光顕・井上頼圀・田中勘兵衛・神田香厳・富岡鉄斎・平出氏三代・大野酒竹・徳富蘇峰・和田維四郎・市島春城・二代目安田善次郎・加賀豊三郎・渡辺霞亭・池田天鈞居・松井簡治・佐佐木信綱・石井光雄・高木利太・大島景雅・守屋高蔵等々、みな錚々たるコレクターです。  ~ 中略 ~  これらのうちで、稀書珍籍の蒐集に於て、質と量を見合わせて、最も見るべきは、私見によれば、大震災の前後を併せた安田善次郎さんと、和田雲村翁で、すぐこれに次ぐは、徳富氏成簀堂文庫でしょう。」


 ■ 青木信寅
 裁判官。サンスクリット文献の収集は有名。死後岩崎静嘉堂文庫へ


 ■ 黒川春村・黒川真頼・黒川真道
 初代春村は浅野梅堂より年長なので、前頁に記載してもよかった。著名な国学者三代にわたる蒐集で、その数8万を越えた。


 ■ 竹添進一郎
 外交官で、のち東大教授となり漢学を講じた。学士院賞を受賞した「左氏会箋」は明治の漢学研究の最高峰ともいわれる。 反町による「井々」というのは蔵書印。


 ■ 田中光顕
 官僚・政治家。陸軍少将、内閣書記官長、警視総監、学習院院長・宮内大臣などを歴任。


 ■ 井上頼圀
 国学者。平田鉄胤門下。蔵書はおよそ6万。「神習文庫図書目録」(昭和10(1935)刊行)あり。


 ■ 田中教忠
 商人・考証家。京都帝室博物館開設時に学芸委員として招聘される。1200点の古文書や古典籍を蒐集。


 ■ 神田香厳
 詩人。代々両替商として栄えた家に生まれ、書画鑑定でも知られた


 ■ 富岡鉄斎
 画家としては小林秀雄がエッセイで高く評価した事で知られるが、本人は自分の本業を儒者だと考えており、最後の文人画家と評価されている。国学にも造詣が深く蔵書は3万巻を数えた。


 ■ 平出順益・延齢・鏗二郎
 これも江戸末期からのコレクション。代々続く名古屋の医家で、競売に立ち会った反町によれば「江戸時代の善本稀書に富んでいた」と


 ■ 大野酒竹
 俳人。医師。古俳書の収集で知られ「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」との言葉も。4000冊の蔵書は東大図書館へ。


 ■ 徳富蘇峰
 ご存知戦前を代表するジャーナリストだが、蘇峰はどちらなのだろう、この時期の稀覯書のコレクターとしても反町によって安田・和田に次ぐ位置づけを与えられているが、なにせ数自体が10万という巨大さであって、これは一ジャーナリストとしての情報環境の整備を目的とする面も強い蒐集ではなかったかと思わせる。事実その浩瀚な「近世日本国民史」の情報量は圧倒的であり、世の幕末モノはたいていこの本を種本にしていた。蘇峰の抜きんでた情報量はこの本に限ったことではなく、例えば山縣有朋の伝記でも同じテーマの本の中では圧倒的だった。


 ■ 和田維四郎
 鉱物学を専門とする東京大学教授で官立八幡製鉄の所長も務めた。反町は、和田を安田と並ぶこの時期最大のコレクターとしているが、彼の蒐集は量的にみれば、和本27077+漢籍18000で計四万五千ほど。明治大正期にはこれを越える蔵書家は幾人もいる。おそらくその質を評価しての判断だろう。日本書誌学のバイブルといわれる著書「訪書餘録」は、反町が自費で復刻するほどの傾倒ぶりである。
 彼の蒐集には岩崎久弥と久原房之助という二人のスポンサーがいて、死後その蔵書はこの二人の下へゆく(和本は岩崎、漢籍は久原。後者はのちに五島慶太へ)。その意味で和田は岩崎や久原の古書蒐集の指南役に過ぎないのではという見方も成り立ち、事実そのような書き方をしている文章もあるが、こうした見方に対して反町は否定的である。


 ■ 市島謙吉
 政治家。晩年は早稲田大学の図書館長も務めた。


 ■ 二代目安田善次郎
 安田財閥御曹司。事業は、日銀から結城豊太郎を安田保善社専務理事として迎えてそれに任せ、自身は稀覯本のコレクションに熱中した。
 蒐集は2期からなるが、第一期の「松廼舎文庫」は関東大震災で焼失。第二期の「安田文庫」も大戦の空襲で焼失した悲劇のコレクター。反町の上得意だったが、その彼が指摘するように質量ともに明治大正期では一二を争う存在であり、文化的損失も甚大である。
 江戸文学中心の前期に対し、後期は古写経・古版本に力を入れた。


 ■ 加賀豊三郎
 大阪の実業家で都立図書館に加賀文庫として寄付した分だけで2万4千百点を数える。


 ■ 渡辺霞亭
 小説家、新聞記者、演劇評論家。江戸文学の蒐集で知られる。


 ■ 池田金太郎
 江戸から明治・大正・昭和前期まで日本を代表する天ぷら屋だった天金の主人。子息は国文学者の池田弥三郎。ここでは本名で記したが反町による天鈞居というのは蔵書印。


 ■ 松井簡治
 国語学者。国語学上重要なコレクション。静嘉堂文庫へ買われた分は5000冊ほど


 ■ 佐佐木信綱
 歌人にして国文の泰斗だったこの人も反町のお得意さんだった。戦後の混乱期に窮乏し、やむを得ず稀覯書を処分したエピソードは痛々しい。


 ■ 石井光雄
 銀行家。日本勧業銀行総裁。戦前に目録「石井積翠軒文庫善本書目」が刊行されている。


 ■ 高木利太
 明治期のジャーナリストで大阪毎日の主筆や専務を務めた。


 ■ 大島雅太郎
 景雅は蔵書印。三井合名株式会社の理事という地位にあった財界人で、歌道では佐佐木信綱門下。源氏物語の写本の収集で知られ、それは親交のあった池田亀鑑の研究にも資したという。


 ■ 守屋孝蔵
 高蔵は孝蔵の誤り。京都の弁護士で、古写経と中国の古鏡のコレクターとして知られる。蒐集物は主に京都国立博物館へ寄付された



 江戸時代に比べて個人蔵書家の規模がさらに大きくなっているようです。明治初期は、大名の蔵書が放出されて稀覯本が廉価で流出したこともあり、古書取引市場も黄金期を迎えました。
 前頁では反町さんが挙げた11人のほかに10人ほど挙げましたが、ここらへんからは実際に彼らと売り買いしていた彼のフィールドに完全に入ってくるので、正直あまり触らないほうが良いと思います。稲田福堂,永田有翠,水谷不倒,幸堂得知,横崎海運,中川得楼など他に思い当たる名前もないわけではありませんが、彼はその蒐集の質まで把握したうえで、あえて挙げてないわけですから。
 ただここでは、蘇峰10万、黒川家8万、井上頼圀6万などの上記のコレクターたちに遜色ない量を誇り、かつ質の点でもきわめて高く評価されている蒐集家だけ数人追加しておきましょう。



 □ 狩野享吉
 その数10万。前述の通り、反町茂雄は安田善次郎と和田維四郎の2人をこの時期の最大のコレクターと評価したが、一方、脇村義太郎教授はこの狩野のそれを明治期における最大のコレクションとしている。前頁の小山田与清もそうだが、反町がなぜこの巨大な蔵書家を省いたのかよくわからない。
 京大文学部長の時には西田幾多郎や内藤湖南を呼び寄せ、前者は京都学派(哲学)の、後者は京都支那学の祖となった。まさしく京大文学部隆盛の基礎を築いたといってもよい学者で、その厖大な書籍のほか、春画コレクターとして世界一との折り紙をつけられている。そのコレクションの形成には、伝説的なせどりの野田園五郎の多大の寄与もあったという。蔵書の大半は死後東北大学へ。


 □ 徳川頼倫侯
 紀州徳川家の当主。しかしこれは代々受け継いできた大名蔵書とは違い、一侯爵として東京に住んでいた彼が一から築き上げた個人蔵書であり、その数9万6千冊、要した費用は当時の金で150万円。旧大名華族の中で最も豊かだったといわれる紀州の財力がしのばれる。麻布の徳川家邸内にあったこの南葵文庫は旧対馬藩主宗家の記録類、小中村清矩旧蔵の陽春蘆本、依田学海蔵書も含んでいた。これらは関東大震災で蔵書の多くを失った東大図書館へ寄付される。なお南葵文庫は個人図書館の体裁をとっており、頼倫侯は「文庫主」ということで、図書館協会総裁も務めていた。ちなみに紀州徳川の大名家として伝わってきた蔵書は現在和歌山県立図書館と和歌山大学にある。


 □ 土肥慶蔵
 皮膚病の最高権威で東大医学部教授を務めた。死後その鶚軒文庫は三井家に購入され三井文庫の中へ入るが戦後分散する。東大図書館には専門分野の4618冊(うち約60部が貴重書に指定)、東京医科歯科大図書館には洋書1805冊と和書440冊、国会図書館には漢詩文7898冊がありこれは日本人による漢詩文の世界最大のコレクションとされる。そしてカリフォルニア大学バークレイ校にも2万8000冊あり、これらを単純に足し合わせただけでも4万5千に及ぶ。


 □ 木村正辞
 前記黒川真頼や、小中村清矩とともに明治初期を代表する国学者の一人。珍本コレクターで蔵書は数万とされる



 ほかに明治大正期の著名の人士で本を多く持っていた人をあげておくと・・・
 □ 森鴎外 1万8千
 □ 中村正直 1万3千
 □ 大谷光瑞 大谷文庫だけで5500
 □ 内田嘉吉 官僚。逓信次官をつとめた。1万6千。。
 □ 渡辺千秋 伯爵。宮内大臣もつとめた。売り立て回に会に参加した反町によると「トラック六台分」という相当の量だが、内容は「程度の高い教養書」が主だったいう興味なさげな表現で、よってこちらに置く



 明治維新を迎えた頃、日本における書物の蒐集には主に三つの「巨大な塊」がありました。
 A ひとつは前述の大名蔵書、
 B つぎに公家蔵書、
 C 最後に寺社蔵書です。

 また、明治以降の古書取引史には、二度の「黄金期」があります。ひとつめは明治の初期で、もうひとつめは終戦直後です。これらの時期は市場に貴重な稀覯本が大量に、また異常な低価格で流出しています。
 大雑把に言って、明治初期の最初の黄金期は、領地と切り離され華族化し、巨大な家を維持できなくなった大名たちによる放出によるものと言い切ってしまってよく、終戦直後の二度目の黄金期は、華族制度廃止に伴う名家の没落にその原因を求めるべきで、こちらも九条家をはじめとする公家華族たちの放出によるもの、と言ってもいいでしょう。
 ここでは一度目の黄金期に市場を席巻した蔵書家たちについて解説しましたが、どちらの黄金期が凄いかというと、反町さんによれば断然戦後のものということになります。(次の次の項で解説しますが)
 さて、近代以前の三つの巨大な書籍収集のうち、最後に残ってるのは仏典などの寺社による蔵書ですが、こちらは古代中世以来の大寺がいまだ健在であるため、市場には流出していません。(幕府や大名の命令で一部供出させられ写しをとられたことはありました)
 一般に大名蔵書よりも公家蔵書のほうが古いものが残っていた、しかし寺社の蔵書はある意味それ以上かもしれない。近衛文麿の「この間の火事でみんな焼けてしまいました」ジョークはさておき、その公家も京の度重なる戦火で幾度となく焼け出されてきました。しかし寺社の場合、叡山などを別にすれば相当なものが残ってるはずです。
 そういえば、大物蒐集家たちで仏典に本格的に手を出してる人は少ないようです(例外は安田あたり)。中山正善のコレクションも南蛮・キリスト系には強いが仏典には弱いことで有名でした。これは蒐集者の興味がそちらに向かなかったということもありましょうが、なにより他の分野のように重要なものが廉価で出回っていなかったことが一番の理由ではないのでしょうか。


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