引き続き引用。
「江戸時代に入ると、永続する平和と文教の向上発展に伴って、蒐集家の数は大いに増加し、一寸思い出すだけでも、徳川家康・僧天海・桂宮智仁・智忠父子・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起(松雲公)・徳川光圀から、 ~中略~ 就中、質量を兼ねて、最も重きをなすものは、松雲公と屋代と梅堂とであろうかと愚考します。但し後の二者の蒐集は既に散逸又は亡滅し、信頼に値する目録さえ残存して居りません。幸いにして、最大最優と想像される松雲公の集は、今日完全に近く保存されて居り、目録も印行されてありますから、江戸時代の代表として、ここにはこれを採る事にしましょう」
■ この時代から反町によって挙げられているのは、学問好きだった家康をはじめとして、天海僧正・桂宮智仁・智忠・脇坂八雲軒・松平忠房・前田綱起・徳川光圀の八人。
□ 管理人がほかに加えるべき存在としては、天海と同様に家康側近だった林羅山ぐらいでしょう。
いまだ江戸の盛期には至らないので、かりにコレクターを官系と民系に分けるなら、やはり前者の色合いが強く、その点では前代までの傾向を引き継いでいます。しかしその最後の時代といえるかもしれません。
反町が江戸期で最も重要な蔵書家とした5代藩主前田綱紀(1643-1724)の尊経閣は和書2万種あまり、漢籍は1万7千種、その他文献が5600種、多くが絶版および極めて貴重な書籍です。
ちなみに、家康が3000(これは晩年の駿府時代に残したものか?)、脇坂八雲軒は数千、松平忠房は島原図書館に残った分で1万余。また天海は1万1400、林羅山が数万といわれます。羅山は晩年火災で蔵書を失いそのショックなのか時をおかずに亡くなりましたが、林家の私塾は事実上の最高学府だけあって書は増え続け、官学化された林述斎の時(寛政九年 1797)には、江戸では紅葉山文庫に並ぶ存在となっていました。
《トピック 大名たちの蔵書》
上で挙げられたのは、公家の親子と家康側近の2人をのぞけば、皆大名です。大名の蔵書は個人の収集といえるのか、国(藩)の蔵書というべきか迷うところがあり、また代々継承されていくので個人趣味嗜好の色も薄くなってゆきます。蒐集の取捨選択をを専門の者が行うことも通例で、前田家の場合は初期に木下順庵がその任に当ったことはよく知られています。海外でも事情は同様。メディチ家司書マリアベーキ、マザランの司書ガブリエル・ノーデ、二代目スペンサー伯におけるトマス・ディブティンなどは書誌学史上では有名な存在ですね。
とはいっても、本好きな殿様、歴代の蒐集活動に特に大きな影響を与えた殿様がいることも一方事実で、蔵書家の星として前田綱起を反町が挙げたことは、反町さんの定義自体はあいまいで前田と屋代・浅野を並べることにかなりの無理はあるものの、理解できないこともありません。大名蔵書は個人のコレクションというより、藩の蔵書という性格が強いですが、その基礎を作り最大の蒐集活動を行った人物か存在することも往々です。で、そうしタイプの最大の例として、前田綱起=加賀百万石が存在するわけです。ただそれは単なる集書活動にとどまらず、諸藩から様々な異本を借り受け、校訂して正しい版を作る、といった名君による一種の文化事業なんですね。(その反面、「前田は本を返さない」ことで悪評がありました)
以下各藩を覧ていきましょう。
まず大名による蔵書で、世に「三大」と冠せられたのは、前述した加賀の前田綱起のほか、幕府将軍家、豊後の毛利高標の三つ。
□ 幕府紅葉山文庫はその数12万3000。末期には16万あったとも言われます。加賀前田の尊経閣では前田綱起がコレクションの基礎を築きましたが、幕府紅葉山文庫の場合それにあたるのが八代吉宗で、この時代の拡充は特記されるべきでしょう。国学の隆盛と期を同じくし、またそれに刺激を与えています。三上参次の「江戸時代史」によると、書物奉行に下田幸太夫を任じて国書の充実を図り、吉宗自身が一条兼良の「桃華蘂葉」を校正したなんて話があるから半端ではないですね。ほかにも歴代の書物奉行(常時四人ほど)には著名な人士が多数です。
□ 豊後毛利高標の佐伯文庫はおよそ8万。しかし2万巻を幕府に献上しています。石高わずか2万石で徳川や前田に並ぶ質の高い本を集めた高標は学者大名と呼ばれ、この蒐集もほとんど彼一代で形成されたものです。その内容は漢籍中心で経・史・子・集は勿論、ト占・農・医と広く各部類にわたり、宋・元・明版などの古い版も多く、洋書も相当あったといいます。それは明治期に清の大蔵書家方功恵の使いが中国で消えた孤本を買いに来た程でした。
おしなべて大藩の書庫は充実しているようで、肥後細川藩は漢籍だけで10万あったとされます。
尾張徳川家も家康から分与された3000冊が、幕末では5万に膨らんでいました。(ただその三分の一が明治期に流出)
徳島藩25万石の蜂須賀家も書の蒐集では名高く、最盛期は江戸屋敷に5万から6万あったとの事。
(そうした反面で、外様では前田に次ぐ石高の仙台の伊達文庫には4170しかありませんでした。)
他にも、毛利高標と並んで学者三大名と称された市橋長明・池田定常の二人も少禄ながら質の高い蒐集をしていました。長昭は宋版・元版の漢籍を数多く所蔵しそこから厳選した30部を湯島聖堂に献納しています(うち21部が重文です)。定常も、佐藤一斎に学ぶこと40年に及び自身でも多くの著述をなしましたが、江戸大火の折、膨大な蔵書と原稿の大半を失っています。
ちなみに幕府の紅葉山文庫は特に吉宗時代に顕著なのですが、前田の尊経閣同様、明らかに集書・校正事業です。買い集めるだけでなく、公家・大名・寺社・儒者に借り受けて写しをとり、諸本を比較し校正する。それは古文書から古器物に至るまでコピーを作るほど徹底している、しかもそれを幕府の権力づくでやるわけです。ある意味これはドイツでやってたモヌメンタ=ゲルマニアエ=ヒストリエアカに近い性質のものかもしれません。一条家では「関東よりの借書の依頼は全く迷惑なり」とか日記にしたためていました。
この文庫は維新後二つに分かれ、宮内省と内閣文庫へ。現在の宮内庁書陵部は欽定憲法の時代ならいわゆる皇室蔵書に当たるんでしょうか? こちらも歴代の図書頭には著名な人が多く、田中光顕・森鴎外など御本人自身がこのブログで名前を挙げられているほどの蔵書家もいます。
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