まず引用。
「日本の蒐書の歴史は、古く八世紀のあの芸亭文庫主にまで遡ります。平安朝時代の初めに中国へ渡った、弘法大師をはじめとするかなりの数の僧たちが、彼の地で多くの書物を蒐集して持ち帰った事は、当時の請来目録の類によって窺う事ができます。その以外では、平安末期の藤原信西・藤原頼長の名が知られます。以後には、鎌倉時代では、明恵上人・藤原定家・北条実時及びその一族等々、足利時代では一条兼良・上杉憲実・同憲房等の名がすぐ記憶に浮かびます」
〔Ⅰ 奈良末期 八世紀〕
■石上宅嗣(729-781)による奈良時代の芸亭文庫から、反町が記述を始めているのは概ね妥当といえる。漢籍と仏典の蒐集で、自宅を寺に改築した際文庫として一般に公開したため日本最初の図書館とも言われ、宅嗣死後の9世紀初頭まで存在していたとされる。
〔Ⅱ 平安初期 九世紀〕
□ これに続くのが、大学別当だった和気広世の弘文院でやはり私邸を改築し数千巻の書を収めた。反町弘文荘というのはこの弘文院からとったのではと思っていたが、反町は和気広世には触れていない。図書収集というより大学として解釈したのかもしれない。
ちなみにこの時代に本が一番多くあったのは、やはり宮中の書庫である。日本国見在書目録には1579部、16790巻を数え、現在の中国本国で見当たらない書物の名前も記されている。
寺社でも、当然仏典に限られるが、高野山には6000巻あったと伝えられるし、延暦寺は山王院の蔵書目録だけで1090点、2959巻を数えた。
〔Ⅲ 平安中期 十世紀~十一世紀〕
□ 反町にはない記述が続くが、漢籍に関しては従来から菅原・大江の2家による独占といってよい状態だった。それを破ったのが藤原道長で、多分11世紀初頭最大の個人蒐集家。所蔵は2000巻を数える。
一方、大江匡房は大江家に伝わる典籍を江家文庫にまとめて収蔵するが、火事で全焼してしまう(1153年)。
〔Ⅳ 平安初期 十二世紀~〕
■ 反町が挙げたように、平安末期の双璧といえば藤原頼長と藤原信西。
頼長と信西は、当代屈指の教養人であったにもかかわらず、乱に絡み、いずれも非業の最期を遂げているのが興味深い。
□ この二人にやや先立ち源師頼も多くの書物を集めていたが、師の大江匡房同様火災にあい数千巻が灰と化している。
〔Ⅴ 鎌倉初期 十三世紀前半〕
■ 鎌倉時代初期における双璧は、藤原定家と明恵。
当時の和歌の最高権威であった定家の場合、子孫が健在で冷泉家時雨文庫には彼のコレクションも残っている。
一方、複数の寺を渡り歩いた明恵のそれは高山寺時代のものであろうか?
〔Ⅵ 鎌倉中期 十三世紀後半~十四世紀〕
■ 上の二人に少し遅れて登場するのが北条実時であり、蒐集した和漢の書のための書庫を晩年に称名寺内に設立した「金沢文庫」は彼の死後も拡充され、孫の北条貞顕の頃には2万巻に達したというから、中世末期では最大の個人蒐集のひとつかもしれない。北条氏滅亡後も、称名寺や上杉氏など管理者を変えながら細々と継続した。もっとも蔵書の多くは後北条氏、徳川家康、前田綱起ら歴代の本好きに持ち出されている。
〔Ⅶ 室町中期 十五世紀〕
■ 室町時代から反町が挙げたのは、一条兼良と、上杉憲実・憲房父子。
この時期で文句なく最大の蔵書家といえるのが一条兼良であり、三万五千巻を数える。有職故実の大家にして和漢に通じ、仏僧を別にすれば室町期最大の学者。よく平安時代の大江匡房に比べられることが多い。
上杉憲実は前述の金沢文庫の管理者で、その中興の祖とされる。同時にその個人的蒐集は「足利文庫」の基礎をなし、この時代の二大文庫の両方にかかわっている。後世、東国のこの名高い二文庫の貴重書を豊臣秀次が京へ持ち去る。天守閣から通行人を火縄銃で狙い撃ちする様な殿様だけあって中々大胆な行動だが、のち家康が元に戻す。しかしその際欲しかった一部の書を自らの手元に置き、こちらも家康らしい行いである。
□ 近世初頭で挙げておくべき他に重要な存在といえば、大内政弘である。明貿易で富をなし、応仁の乱では山名の背後で黒幕的な動きをした大内一族だが、城下は戦乱の京を離れた公家が多く滞在し小京都と呼ばれる文化の中心になっていた。歴代の中でも特に政弘の集書は著しい。自身も和歌を2万種も残しており、旧知の公家に書写を依頼するなど、その山口殿中文庫は古今の典籍を集めてかなりの所蔵に達したという(「名だたる蔵書家、隠れた蔵書家」参考)
以上、古代末期から近世初頭まで駆け足で見てきましたが、この頁ではあまり問題は生じません。(江戸時代から蔵書家の数も増え煩瑣になります)
ひとつ感じるのは、日本という国が中世をとおして知的に高い水準にあったことです。その社会にどれだけ本があるかということは知の総量を示すものだからです。西欧中世末期で最大の蔵書家といわれるリチャード・ド・ベリー(14C)の所有数は1500冊ほどだし、時代を遡るともっと少なくなってきます。13世紀最も本の多かったソルボンヌ大学でも1000冊程度、10世紀のクリュニー修道院では570冊程度。(これは西洋中世が一種の情報飢餓状態にあったためで、古代ローマ期には何万クラスの蔵書家は存在します)
ただ、上に何巻何巻と書いたのは巻き物の数であり、冊数ではありません。冊数に直すとその数分の一になってしまうことに留意すべきです。
0 件のコメント:
コメントを投稿