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2018年12月5日水曜日

[10] 鏡像フーガ6 外人たち

「外人ではE・サトー、B・チェンバレン、F・ホーレーは、それぞれに立派な蒐集家で、質に於いても優れて居ります」という引用の通り、初期の日本研究者が膨大な文献を集めていたことは従来からよく知られていました。中国においても、外人が現地で巨大なコレクションを形成していた例としてジョージ・モリソンという大きな存在があります。
アーネスト・サトウとバジル・チェンバレンは前頁の5 明治大正期の蔵書家 と同時期にあたり、フランク・ホーレーは次頁の7 昭和の蔵書家 の同時期にあたりますが、この頁に一緒にまとめることにします。またジョージ・アーネスト・モリソンも、この人はアメリカ人で、中国国内で蒐集活動を行った人ですが、後に述べる理由でここに一緒に記載します。
さて、反町さんが挙げた外人の日本文献蒐集家は以下の三人です。



 ■ アーネスト・サトウ
駐日公使を務めたイギリスの外交官で、明治期を代表する日本専門家。四半世紀を日本で過ごし、「一外交官の見た明治維新」「日記」など、わが国で親しまれている著書もある。
日本で買い集めた蔵書は4万冊に上り、珍本稀書も多かった。コレクションの形成された時期は、大名蔵書が崩壊して古書価格が崩落した日本の古書史上での第一期の黄金期にあたる。晩年は枢密顧問官に任ぜられ、中産階級出身者としては異例の出世を遂げている。


 ■ バジル・ホール・チェンバレン
お雇い外国人として来日し東京大学で教師(事実上の教授だが外国人にその呼称は許されなかった)を務め、滞日はおよそ40年に及んだ。この時期では前記サトウと並ぶ日本研究者とされる。蔵書印は英王堂。サトウの蔵書はケンブリッジや大英図書館に寄贈されたが、チェンバレンは門弟の上田万年・佐々木信綱・杉浦藤四郎などにかなりの部分を譲って帰国した。



この章は一番問題のあるページなので工事中です

以下はトルソ。


 ■ フランク・ホーレー

前に図書館で借りた本からの抜き書き   「書物に魅せられた英国人」より
ホーレーはリバプール大、ケンブリッジ大、パリ大、ベルリン大などで学び、パリ大ではペリオの門下。
戦前は蝦夷、アイヌ、沖縄、朝鮮の古辞書・古活字本が多く、戦後は重要文化財に匹敵する稀覯本のコレクター。
ロンドン大で満州語の教師。 千葉勉外大教授が訪英し、ホーレーを東京外大の講師に、他に理科大や京都三高でも教える。
1939年、英から情報局のレッドマンが来日し英国文化研究所を設立し、ホーレーが長になる。イギリス大使館情報委員会の委員。
これに対して朝日など日本メディアはスパイだと報道。1941年にホーレー夫妻は逮捕。国家総動員法を犯したという理由。
蔵書は没収され慶応大学に売却。返還されたときは2割が欠本でホーレーの蔵書リストには「慶応大学にまた奪われた」と書き込んでる。
帰英してタイムズに入社。元駐日英大使クレーギー、ピゴット将軍、レッドマンなどの推薦。
イギリスではBBCの日本語放送顧問や英国戦時外務省情報担当を務める
再来日後、ホーレーはマッカーサー批判で追放されそうになる。


 戦前のホーレーも、冊数は1万7500冊に及び、普通の民家を借りてたものだから家じゅう本棚であふれたっていわれているので、かなりの蔵書家といえます。しかし、戦後すぐの収集活動は、中山正善を向こうに回す程のさらに大規模なものでした。前記サトウやチェンバレンが大量に買い集めた時期は日本の古書史上における第一期の黄金期にあたるんですが、ホーレーのこの収集活動は、戦後に公家蔵書が崩壊した第二の黄金期が中心です。
 前期のコレクションと後期のコレクションに非連続的な隔たりがあり、内容が大きく違っているのは、たとえば安田善之助がそうでした。安田の場合は関東大震災で前半の書物を失ってその後、一からまた集めはじめたわけで、江戸文学中心の艶やかな印象の前半に対し、古写経に向かっていった後半はかなり渋いです。
 ホーレーも、前半の蒐集は戦前にスパイ容疑で逮捕された際没収され(戦後返還されます)、再来日後に新たに集め始めました。戦前のは、いかにも日本研究者といった感じですが、後半は日本の大物蒐集家に交じってというか、(中山正善を例外として)それらすべての上に立ってというか、どこから資金が出たのか訝しげに感じるくらい稀覯本なら何でもこいの巨大なコレクションを形成します。
 これは単に趣味嗜好の変化というよりも、集める目的に変化があったのではないかという気がします。ホーレーが変わってるのは、十何年か保持して、すぐに売りさばいてることです。反町によると、買う時に金に糸目をつけなかった反面、売る時もかなり高い価格でないと渋っていたとの事。




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